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森鴎外雑感
 −『雁』ほかと無縁坂のお玉さん−

西山正義



(平成19年1月4日)

 森鴎外を実に久しぶりに読んだ。(それにしても忌ま忌ましいのは、おう(U+9DD7)の文字が機種依存文字で、個々のパソコン環境によっては表示されないということだ。鴎(U+9D0E)で代用するしかないのだが、いい加減に何とかしろと言いたい)。
ちくま文庫「森鴎外全集4」『雁/阿部一族』カバー 年末に、一昨年の公開講座のテキストの残部ということで、ちくま文庫の「森鴎外全集4」『雁/阿部一族』を職場から貰い受けてきたのだった。“読書”というのは、そのきっかけが偶然である場合も、その時々で読むべくして読むものを自然に選択しているものだ。僕にとっての今それは「雁」のような気がした。他にも数冊貰ったのだが、クリスマス前に持ち帰り、そのままにしてあったのを新年二日に手に取ったのだ。冒頭の「雁」はあとでゆっくり読むことにして、今まで読んだことがなかった「ながし」「鎚一下」「天寵」「二人の友」「余興」の五編を読んだ。
 鴎外の神髄は、一にも二にも簡潔・明晰な文体にある。と思っていたのだが、これらの五編は必ずしもそうしたものではなかった。いずれもマイナーな短篇で、文壇の要請にしたがって書き流されたもののような感がある。今の感覚で読めば、言葉や言い回しはいかにも“明治”なのだが、当時の現代語の最先端で書かれた口語の作品で、たぶん当時の普通の知識人が“普通に”読みこなせたものであったろう。
 大正二年から四年までのほぼ同時期に、比較的楽に書き流されたものであろうと想像させるが、しかし、顕著なのは、いずれも“芸術家小説”であるということである。したがって、決して“書き流された”ものではないことがわかる。いずれも突き詰めれば“創作とは何か”ということにかかわってくる。そういう作品群で、それなりに面白く読んだ。
 さてやはりこの時期の問題作としては「雁」であろう。中学三年で初めて読み、大学時代に再読しているが、今また読んでみたら、どんな風に感じるか。何を感じるか。楽しみである。


(平成19年1月5日)

 森鴎外の『雁』は、「古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している」(新字体新仮名遣いに変換)で始まる。
 おかしなことだが、この冒頭を読んだ瞬間、たしかこういう書き出しの小説をどこかで読んだことがあるような気になった。もちろん、それがほかならぬ『雁』であるわけなのだが、たしかにこの冒頭は記憶にあって、それがこの作品であったかと改めて気づいた次第なのだ。過去に二度、それも多感な頃に読んでいるので、すっかり忘れたつもりでも、読み出せば細部も思い出されるのかもしれない。そして今の僕に何かヒントになることが見出されるかも?(そういう邪な読書はよくないが、久しぶりにわくわくして本を読む)
 この作品は、「すばる」の明治四十四年九月号から連載が始まる。当時を「現時点」と見れば、たしかに明治十三年は「古い話」である。約三十年前の話。今だって、三十年前となれば、古い話であり、特に風俗は大きく変わってくる。が、昭和生まれの我々からすると、いずれも明治時代の話で、この間の三十年間の移り変わりはピンと来ない。しかし、今から三十年前より、それ以前の三十年間の方が激動の時代であったように、最近の三十年間よりよほど移り変わっているであろうことは理解できる。
 ところが、冒頭すぐに出てくる下宿屋での学生たちの生活は、“下宿屋”自体がなくなっている現代とはやや趣が異なるにしろ、基本的には今の学生とまったく変わらない、と読める。しかし翻るに、明治十三年といえば、十数年前まで“江戸時代”だったのだ。幕末にはもう、現代にひと繋がりの文化・風俗・思想が、町人たちの間にはすでにあったらしいのだが、それにしてもちょっと驚嘆する。明治維新からわずか十年で、最高学府では現代と変わらない(いやそれ以上の)学問が行われていて、これは江戸時代の寺子屋制度がものをいっているわけだが、日本の教育水準の高さがあらためて知れる。もちろん弊害がなかったわけではない。が、これが現代日本の原動力だろう。それがアジアで突出した国にさせた。いい悪いは別にして。優秀な民族だと言っているのではない。そういう性質なのだ。だから、そういう性質でない民族が真似してもダメなのだ。
 それはそうと、明治はすでに遠く、インターネットも携帯電話も考えられないわけだが、人々の生活はさほど変わっていない!


(平成19年1月8日)

 今日(もう昨日だが)は、ソフトボールのチームメイト数人で、プロ野球OBのマスターズリーグ戦を東京ドームに観に行った。それはどうでもいいのだが、野球→球→玉、東京ドーム→後楽園→本郷→無縁坂からの連想で、再び森鴎外の『雁』について。

東京ドーム

 最初に読んでからは二十八年ぶり、二度目からでも二十三年ぶりぐらいの再々読になる。三日かけて、ほとんど音読するようにじっくり読んだ。覚えていたのは、最初と最後だけで、真ん中の細部はすっかり忘れていた。『雁』といえば、“近代的自我”と反射的に出てくるように、文学史上の評価も解釈もとうに定まっている古典である。
 実際、中程の主要部はヒロイン“お玉”の半生・境涯に費やされているわけだが、この部分はある意味なくてもいい。いや、もちろんこれがなければ、“お玉”の〈悲劇〉は語り得ないのだが、最後の効果へ引き絞るツマみたいなものだ。連載小説のタイトルが当初から『雁』であったことからも分かる通り、また、物語の構造上からしても、最後の場面のすれ違いを描くために、人物像形されたものであろう。
 無論、眼目は語り手の「僕」でも、何の罪もないといえる「岡田」でもなく、“お玉”の境涯にある。それをどう解釈するか。作者は、それについて何の批評も教訓めいたことも付け加えていない。ただ物語っているだけだ。そこがいいのだが、いくつかのつまらない偶然が重なって、岡田の投げた一投で図らずも仕留められてしまった「雁」は何を象徴しているか。そうしたこともすでにさまざまな文学史家によって出尽くされている。いま僕がそれに付け加えることは何もない。
 ただ、“お玉”の境涯の細部は忘れていた。というより、僕はもう少し年嵩だったように思い込んでいたのである。「僕」も「岡田」も東京医学校の卒業一年か二年前の学生ということは、二十二、三歳。“お玉”はそれより一、二歳上の、高利貸の囲い者であると。実際は二十歳である。満で言えば十九で、人目を引く美人ではあるが、高利貸の囲い者というような妖艶な大人の女ではない。いや、当時の感覚で言えば、十分“年増”であろうが、すれてはいない。いや、そういう兆候は兆し始めていたのではあるが。
 それで思ったのは、最初にこれを読んだ時、そうか、“お玉”が二十歳だとしても、僕はそれよりはるか年下だったからだと。二十歳でも大人の女に感じていたのだろう。二度目に読んだ時は、だいたい同じぐらいの年代だったのだが、やはり明治の青年の方が大人びていると感じたからではないか。これは作品の評価とは全然関係のない個人的な感慨であるが。
 鴎外がこれを連載し始めたのは満四十九歳の時で、すでにその年齢に近づきつつある今の僕。“お玉”は一つの〈典型〉であって、形の上では似ていても、心理上の境涯は現代では考えられないから、とうてい現代に当て嵌めて考えることはできない。人々の生活は、昔も今もそれほど変わっていない、という部分もあるが、やはり大きく変わっているのだ。僕らのお祖母さんの世代ぐらいまでは、まだそいうこともあった。ということをあらためて認識できればそれでよいだろう。
 小説の技法上のことはどうか。それはまた別に考えさせられることもあったが、それは内緒にしておこう。一つだけ言っておくと、これもまた〈方法論〉の小説であって、つまりだから《近代小説》のそれも名作といえるのだ。


〔初出〕平成19年1月4日/1月5日/1月8日短説ブログ



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