短説と小説「西向の山」 ホーム随筆の庭>犀星と朔太郎メモ


室生犀星の“家庭をまもれ”と
萩原朔太郎メモ

−2009年12月と2014年4月の雑感−

西山正義



実に久しぶりにノートに万年筆で書く
(平成21年12月9日・水)

 先日、久しぶりに定時で職場を上がり、早く帰宅できると思ったのだが、新宿の乗り換えで連絡通路を通らずにたまたま別のルートを使ったら、地下街の特設催事場で古本市をやっており、ちょっと覗くつもりが二時間近くも道草を食ってしまった。
 その折購ったうちの一冊を読み始めた。今日も定時で上がれたのだが、人身事故で電車が遅れたり、寝過して先の駅から引き返してきたりでそれ程早い帰宅ではなくなってしまったのだが、それでも早い方で、しかし逆に早いがために娘にパソコンを占領されていたので、久しぶりに二階の自室(これが普通の二階ではなく、一度勝手口から外に出て外階段で行かなくてはならない)に籠って本を読み始めたのだった。
 その本とは、飯島耕一の『萩原朔太郎』(昭和50年・角川書店刊)。本の内容とは関係なく、久しぶりに詩人論を読んでいると、やはり小川和佑先生に思いが行き、そしてやっぱり文学っていいなあという思いに駆られた。そして、思いはまた戻るのだ。どうして、それだけに浸っていられないのか――。


鈍化現象
(平成21年12月22日・火)

 ハンス・カロッサや堀辰雄の『幼年時代』をあげるまでもなく、多くの作家がその幼年から少年時代の思い出を書き残している。若年のころの記憶(実際の体験というよりは脳裏に刻み込まれた原風景)は、その人生に決定的な影響なり影なりを与えるであろうから、ものを書く人間なら誰しも書き留めておきたくなるものなのだろう。
 ただしそれは、実際の体験を忠実に再現したいという場合もあるかもしれないが、幼年から少年時代特有のある甘やかな、一種の見果てぬ夢みたいなものを加味したり、自己の体験として直接的にではなく、虚構の中で登場人物に仮託してひそかに書き留めておくという場合もあるだろうし、あるいはもっと文学作品として実験的な試みを試す方法である場合もあるだろう。が、いずれにしろ、書かずにはいられないモチーフであるだろう。
 あの、幼年から少年時代のほろ苦くしかし妙に甘やかな空気というものは一体なんだろう。おそらくそれは観念が勝る以前の、直接五感に刺激を感じたまさに官能的な体験であるからであろう。
 ところが、そうした記憶を折に触れて思い出したり、幼年・少年時代を切なくも甘く感傷的に反芻するのも、せいぜい二十代のなかばか終わりごろまでで、四十五も過ぎれば、もはやどうでもよくなってします。昔の友人や昔を知る人に会うと、今でも多少は恥ずかしいことでも、もはや苦笑の領域でしかない。
 それは、年とともに感受性が磨滅したためだろうか。それとも、それが大人になるということだろうか。どちらにしても、かつて“その頃”にはそうなるのを強烈に拒否し、そういう人間を最大限に否定していたのに。
 なぜこんなことを思ったかというと、前回書いた新宿の地下特設催事場での古本市で、105円だったので壇一雄の『わが青春の秘密』を“ついでに”購入していたのだが、それを今日読み始めたからだ。今年後半はまったく本が読めないでいた。今も集中して読めず、飯島耕一の『萩原朔太郎』、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』、富士正晴『贋・久坂葉子伝』などをチャンポンに読みながら、今日の気分はこちらだったのだ。
 収録作品の初出はわからないが、昭和51年4月新潮社刊の初版本。奥付の裏のページには、壇一雄遺作!長編『火宅の人』本年度読売文学賞受賞の広告が載っている。没後三ヶ月後の出版である。享年は六十三歳。
 つまり何が言いたいかというと、若いころの未刊行作を本にしたというのではどうもなく、比較的晩年の作品なのだろう。まだ最初の章を読んだだけなのだが、よくもこんなにつぶさに幼年時代を思い出せる、そして書こうと思うものだと正直羨ましくなったのだった。もちろん、雑誌社からそういう依頼があったのだろうし、職業作家としてその注文に応えただけなのかもしれないが。あるいは、六十前後になったら、また違うものなのか。
 幼年時代はおろか、少年時代も何か遠いものになってしまっている。最も多感だった十五から十八。自分の子供が、今まさにその年代になったのに、(うちの子供が二人とも全然ませていなく年よりも幼い感じがあるせいかもしれないが)、今大変な時期にあるという思いにも至らず、何か大切なものを失ってしまっているという思いに駆られるのだ。もっと悪いことには、しかし、それを切実な危機として感じていないという、まさに精神の鈍化!


「家庭をまもれ」
(平成21年12月29日・火)

 先にも触れたとおり、飯島耕一の『萩原朔太郎』(昭和50年・角川書店刊)を読んでいる。象徴主義・象徴詩(特に日本の場合の)とはなんだったろうということに非常に示唆に富んだ章を読んだあとに、「谷崎・春夫・犀星」の章の冒頭に引用された室生犀星の「家庭」という詩を読んで、僕も萩原朔太郎同様に強い感銘を受けた。もちろん朔太郎の感銘と僕のそれとはおそらくベクトルが百八十度異なっているだろうが。
 昭和二年に刊行された『故郷圖繪集』の中の一篇。朔太郎は集中これ一篇に注目し、読後すぐに「室生犀星君の心境的推移について」を書いているとのこと。
 それから四年後に、朔太郎も同じ「家庭」という題の詩を発表しているが、これまた恐ろしいほどの真実をあらわしている。どちらも家庭というもののしがらみということに誠に恐ろしい真実を突きつけているが、親友同士でも犀星と朔太郎では真逆である。
 孫引きになるが、以下に引用したい。(出典は、福永武彦編『室生犀星詩集』昭和43年・新潮文庫)。

  家庭をまもれ
  悲しいが楽しんでゆけ、
  それなりで凝固つてゆがんだら
  ゆがんだなりの美しい実にならう
  家庭をまもれ
  百年の後もみんな同じく諦め切れないことだらけだ。
  悲しんでゐながらまもれ
  家庭を脱けるな
  ひからびた家庭にも返り花の時があらう
  どうぞこれだけはまもれ
  この苦しみを守つてしまつたら
  笑いごとだらけにならう。
               ――室生犀星「家庭」

 犀星は死後五十年経っていない(平成21年現在)。亡くなったのは僕が生まれるほぼ一年前。僕は犀星にはそれほど親近感を持っているわけではない。親近感という点では断然朔太郎だ。朔太郎は戦時中に亡くなっているので当然五十年以上経っている。だからここで引用(ではなく、転載しても)差し支えないのだがそれは省略する。
 詩でも小説でも犀星はむしろ晩年の方が好きである。『蜜のあはれ』は、こんなものを書き得るのかという驚愕に値する小説で、それ一篇だけでも十分近代文学史上に残ってしかるべきである。しかし、そういうこととは関係なしに、この詩には参った。室生朝子さんはまさにこの家庭から出てきたのだなと思わせる人柄だ。もっとも萩原葉子さんにも逆の意味ではあるがそういうことを感じさせるものがあるが。
 詩とは何か。詩のスタイルとは。何だかんだ言っても、その主義主張を超えたところで、ものすごく月並みだが、魂をゆさぶられてしまった。


・それから、四年四か月後の春


春の夜
(平成26年4月9日・水)
春夜の新宿箱根山春夜の新宿箱根山

生暖かい春夜の病的幻想と心理
     ――萩原朔太郎「詩の音楽作曲について」

『月に吠える』中の「猫」という詩について語った部分の一節である。

春の夜に聴く横笛の音
(平成26年4月11日・金)

……私の真に歌はうとする者は別である。それはあの艶かしい一つの情緒――春の夜に聴く横笛の音――である。(中略)ただ静かに霊魂の影を流れる雲の郷愁である。遠い遠い実存への涙ぐましいあこがれである。
     ――萩原朔太郎(詩集『青猫』序)


卓上噴水
(平成26年4月21日・月)

 このところまた萩原朔太郎を読んでいる。
 大正四年三月、今風に言えば満二十九歳のとき、人魚詩社同人と『卓上噴水』を創刊。人魚詩社は、前年六月、朔太郎、室生犀星、山村暮鳥の三人で結成された。詩・宗教・音楽の研究を目的としていたという。
 雑誌は、残念ながら、四月二号、五月三号を出したきりで、文字通り三号雑誌で終わっている。しかし、この誌名は何ともいいではないか。

 昔、インドの王族は豪華な宴会のとき一オンス何千万円といふ高価な香水で卓上に噴水を作つた。世界最高のゼイタクである。

 と、朔太郎はその誌名の由来を語っている。つまり「卓上噴水」とは、彼等の独創ではないのだが、何とも典雅で貴族的な趣味性であるか。

 卓上噴水。いいじゃないか。こんなものがほしい。今なら、インテリアのおもちゃがあるかもしれない。
 と思って調べたら、なんのことはない、やっぱりたくさんありました。アロマテラピーみたいな癒しグッツになっていました。


品川沖
(平成26年4月22日・火/4月26日・土)
港南大橋付近より品川沖の運河

 萩原朔太郎の詩に「品川沖観艦式」というのがある。詩集『氷島』に収録されている。
 「昭和四年一月、品川沖に観艦式を見る」(『詩篇小解』)
 このとき朔太郎は数えで四十四歳。五十七年の生涯からすると、決して晩年とは言えないが、詩人としてはもはや晩年の作といっていい。『氷島』は賛否が分かれる詩集であるが、集中これは傑作であろう。晩年の「絶唱」といってもよい。

……灰色の悲しき軍艦等、なお錨をおろして海上にあり。彼らみな軍務を終りて、帰港の情に渇けるが如し。我れすでに生活して、長くすでに疲れたれども、軍務の帰すべき港を知らず。暗澹として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食われたり。
     ――萩原朔太郎『詩篇小解』

 それから半年後、この昭和四年の七月に、いろいろ問題のあった若い妻稲子と離婚。もちろん家庭不和は、その一年以前から続いていた。そして、いっ たん東京を引き払い、まだ幼い二人の女の子を伴い前橋の実家に戻っている。ほどなく単身上京するが、経済的に頼みの綱であった父親が病に倒れすぐに帰郷。
  幼い子供を二人抱えていたとはいえ、妻に去られた四十男が、実家の父母のもとに身を寄せるのは、朔太郎に職がなかったからであるが、もっと言えば、詩を書くこと以外の単に金銭を得るためだけの“仕事”をまるでする気がなかったからに他ならない。いい気なもんだと言ってしまえばそれまでだが、私には彼を批判する資格はない。
 戦前は、大元帥閣下が御臨席のもとに挙行された観艦式。それが華々しければ華々しいほど、軍艦の灰色のように、詩人の心は……。


萩原朔太郎の先生ぶり
(平成26年4月24日・木)

 引き続き、萩原朔太郎を読んでいる。
 中央公論社版『日本の詩歌』第14巻「萩原朔太郎」の月報(「付録」5)にこんな記事が載っていた。「詩歌サロン」と題された囲み記事で、執筆者は不明だが、同全集の編集員の筆だろう。

▽昭和九年から十年にかけて、萩原朔太郎は明治大学の講師をしていた。教壇における朔太郎は、たくみなユーモアをまじえつつ、詩はこういうふうに読むものだといって、自作詩を朗読したりした。そして講義の要点を黒板に書いたあと、これを消すのに黒板拭きをつかわず、手のひらでやたらに消すと、その手を今度は自分の洋服にこすりつけるのが例であった。これは当時の明大生、詩人の江口棒一の回想である。

 同じ明大文芸科出身の小川和佑先生がまだ四、五歳頃の話である。小川先生は間もなく八十四歳であるから、ちょうど八十年前の話。僕が通っていた頃から遡っても五十年、つまり半世紀前の話なのでした。




「西向の山」ホームへ Copyright © 2009-2015 Nishiyama Masayoshi. All rights reserved. (2015.4.4) 随筆の庭/扉へ戻る