短説の神髄は、座会での合評と推敲にある、といえる。
それは頭ではみな分かっているのだが、実践となるとなかなか難しい。いや、一度座会に出し、二三の感想を聞き、少し手直しする程度は多くの人がやっている。それで良くなったような気がして、満足してしまってはいないか。月刊「短説」の編集をしていて、そう思うことが多々あるのだ。
確かにほんの少しの修正で、ぐっと良くなり、それで完成される作品もある。しかし、実際にはそうでない作品のほうが多い。一箇所修正すると、ほかが綻びてくる。別の意見も出てくる。ついには、すべてをいったん解体し、全面的に改稿しなければどうにもならなくなる。
そこまで繰り返し書き改めるのは、実に忍耐のいることで、新作を書くより労力を要する。作者自身も、良き読者、良き批評家にならなければ不可能な作業だ。これが難しい。
しかし、やってみる価値はある。もともとある程度完成された作品ほど、推敲が難しい。語源通り、だから「推敲」といえる。だが、より完成度を高める価値がある作品なら、チャレンジすべきだろう。
拙作「玉」を取り上げる。
(これは相当極端な例になるが、作品批評と推敲の過程を記録に留めておく)
この作品は、平成17年6月15日の夕刻、所用のため街を歩いていて、突然発想された。天啓のようなものであった。歩きながらもう文章が出てきていた。
そこで喫茶店に寄り、咸興が褪めぬうちに手帳にメモした。メモというより、この時点ですでに草稿であった。原稿用紙にして四枚ほどあった。それを、その日の深夜から未明にかけてパソコンに打ち込んだ。
まず、参考までに、三行オーバーしている2稿(左側)と、7月1日〆の第117回通信座会に出稿した4稿(右側)を挙げておく。
(3稿までは草稿扱いということで、この4稿をもって第1稿とする。色分けしたところが変更点である)
玉 (草稿) |
玉 (第1稿・通信座会稿) |
■芦原修二(地/3点)……私の住む近所でも農家の方が自動販売機を設置したところがあります。ところが、すぐやめてしまって、もとの無人販売小屋に戻しています。そう考えて来たら、この作品も自動販売機よりは、無人販売所みたいな施設の方が、似合うのではないかなどと思いました。
■川上進也(人/2点)……自動販売機でなく無人売り場の設定なら迷わず「天」の作品。即ち、自動販売機といえば読者は商品が内蔵されているイメージを持つ筈。あとからの(むき出しのまま出てきた)のはいいとして、冒頭部分あたりの記述(見たこともない物体が置かれていた)などは無人売り場の印象でした。
■荒井郁(地/3点)……「躊躇った」は「ためらった」とよむのですか? 洗ってあげた、さすってあげる、は少し変と思います。洗った、軽くこすった、でいいのでは? トハ言エ、面白イ作品。
■小野寺信子(天/3点)……書かれている物体は一体何だったんだろう。架空の物体の色は想像で読んだ。それが生きているような、不思議だけどなにか分からないまま、最後に意味のあるような文章。「こいつは何かの反映ではないのか」読んでいる私のもそう思わせた。
■普川元寿(地/3点)……ルネ・マグリットの「リンゴと部屋」だと思う。その結末へどう展開していくのか。そのスタートが玉コンニャク。途中も奇妙さ、気持悪さも入れてすんなり。最後のオチは玉・リンゴが巨大に成っただけの方がいいかも。会社を辞めるとこまで行くのはやはり小説的なんですね。
■山本萬里子(地/3点)……ありえない話だけど、もしも……と考えました。アパートをひきはらってそれからどうなったのでしょう。これも私には書けない題材でした。
■飯塚史子(天/4点)……野菜をうっている自動販売機に置かれていたもの、もしかして誰かが置いたモノかもしれませんが… 題名がシンプルでよいと思います。
■すだとしお(人/2点)……カフカの『変身』のようであったが、この玉は売っていたものだ。私にはそれが何なのか分からないので、考え続けている。それが作者の目的でもあるような気がしている。ただ、「夜の闇に光る笑い」はどんな笑いなのだろう。そして玉はどのように笑うのだろう? そのイメージが私に見えてこない。私の感性が歪んでいるせいかもしれない。
■7月18日集計/参加7作品・評者8名/総得点23点・座会「天」位■
各作品評の妥当性、良し悪しはここでは問わない。以上の感想を参考に、約二ヶ月後の8月24日に2稿を書き、翌日ML座会に投稿。さらに8月30日に3稿(アップは31日)。
玉 (第1稿) |
玉 (第2稿) |
■米岡元子(8月26日)
「玉」を読ませて頂きました。
> 一体これは何か。きっと、こいつは何かの
> 反映ではないのかと僕は思うようになった。
> そしてついに、それは部屋を圧するまでに
> なった。人ひとり入る隙間もなくなったので、
> 僕は会社を辞め、アパートを引き払った。
この主人公は迷っていたのですね。これではっきり決心がついたのだわ。きっと、自分のやりたい仕事を見つけることが出来たのでしょう。
■西山正義(8月31日)
ほんの少しですが、修正しました。発表原稿としては3稿ですが、実際には6稿目になります。一応これを今
のところの決定稿とします。
■福本加代(8月31日)
「玉」読ませていただきました。今朝の朝日新聞に「電子ペット新展開」として「ゆるコミの流行」の記事がありました。
> たのは、その玉が僕にニッと笑いかけてきた
> 見ていると、気持がなごむような、不吉な
> 予感がしてくるような。いずれにしろ、それ
> は何か生きているような感じがするのだ。僕
何かそのような展開かなと思っていましたが、ラストで驚かされました。こうして新しいホームレスが生まれるのでしょうか。
■西山正義(9月1日)
拙作「玉」について
米岡さんの解釈
> この主人公は迷っていたのですね。
> これではっきり決心がついたのだわ。
> きっと、自分のやりたい仕事を見つけることが出来たのでしょう。
と、福本さんの解釈
> が、ラストで驚かされました。こうして新し
> いホームレスが生まれるのでしょうか。
は、正反対ですね。もちろん読者がどう読むかは自由なわけですが、
僕としてはどうもその中間のような。おそらく、「自分のやりたい仕事を見つけることが出来た」わけではないでしょうし、だからといって、
ホームレスを指向するほどまでには至っていないのではないか。まあちょっとさすらいの旅にでも出てみようかといったような。しかし、その先は、いずれどちらかになるのでしょうが。いや、あるいは同じ繰り返しをし続けるのか。僕も分かりませんが。
■西山正義(9月1日)
再度、拙作「玉」について
この作品の論点は、はっきり二点にしぼられる。
つまりひとつは、
> 一体これは何か。きっと、こいつは何かの
> 反映ではないのかと僕は思うようになった。
この一文は、まったく余計なのではないか。こういう書き方をしてはいけないのではないか。
ということと、もうひとつは、 「アパートを引き払った」のはいいとして、「会社を辞めた」
というのは語りすぎではないのか、ということ。
それについて言及した意見は、通信座会でもありませんでした。
おひと方、『「こいつは何かの反映ではないのか」−読んでいる私にもそう思えた』というコメントと、もうおひと方、「会社を辞めるとこまでいくのは小説的なんですね』というご指摘があったのみ。この「小説的」というのは、いい意味で言っているのではないと思います。玉が巨大になっただけのところで終わっていたほうがいいという意見。つまり、「会社を辞めた」云々という
ような意味ありげな文がないほうがいいという意見。
ただ、これがないと、単に不条理の話になってしまわないか。
やはり問題は、「何かの反映」云々の一文。これがいいのか悪いのか、判断つきかねています。
因みに、初稿と2(3)稿の大きな違いは、冒頭で玉を買う所が、「自動販売機(ロッカー形式のやつ)」か「無人販売所」かの違いです。その他にも細々書き直していますが、これは芦原さ
んと川上進也さんの意見で直しました。
■芦原修二(9月4日)
『玉』 大好きな世界で……
こういう文学がつくり出す世界が大好きで、読んだあと、この作品の世界について、ただぼんやりと感じているのが、私には何よりも心の慰めになります。その意味で、内田百間(門構えの中は「日」でなく「月」なのですが、表示できませんので…)が大好きな人間なのでもあります。
その上で、私ならこうするんだが、という思いを2、3記してみます。
> が、それにしては異様に大きい。何より驚い
> たのは、その玉が僕にニッと笑いかけてきた
> ことだ。僕は思わず振り向いた。
たぶん私なら、ここの「何より驚いたのは、」の一文を省いたでしょう。「その玉が僕にニッと笑いかけてきた」とストレートに入った方が、読者にとっても「えっ、何んだって」という驚きになると思うからです。つぎに、水で洗って、
> すると、そいつは少し大きくなった。水を含
> んだからではなく、どうも僕がさすると大き
> くなるようだ。
という発見のあとです。ここでは、何回かそのこする試みを、止める事ができなくなって、繰り返して、かなり大きくしてしまったあと、「部屋一杯に広がってしまう」ところは、想念の世界で予測させたまま、再度とりだしては、こすってみたい誘惑にかられさせながら、がまんしている不安と酩酊感の中で、この作品を終わりにするだろうと思うのです。
つまり、なんというか、御作では結末がちょっとオーバーになってしまって、リアルな喜びと怖さが縮小してしまう、という感じがする、と言ってもいいかも知れません。
こういう玉(ぎょくと読ませたい気もします)を持っている不安は、男性が幼児期から感じ出していて、少年期に爆発させた思いなんだろうと思います。その恐怖に通底しているから、御作は、無上に面白いんだろうと思います。
以上、はなはだ勝手な、一読者の、夢に感じているような役立たずの感想ではありますが。
■西山正義(9月1日)
芦原様 拙作「玉」にご感想ありがとうございます。ようやく目を見開か
されたというか、何か分かったような気がしました。
この作品は、自分で言うのもなんですが、自身結構気に入っていましたし、そこそこの出来に仕上がったと思っていました。事実、7月の通信座会でも全員が票を入れ、「天」をいただいております。その時の読後評を参考にさらに推敲しました。それによりさらに良くなったと思っていました。しかし、それでもなお何か物足りないというか、何か違うんではないか、という思いがありました。
しかしそれが何なのかよく分からないでいました。
その不満点は、おそらくこういうことではないか。この作品は、
六月のある日、夜道を歩いていて、野菜の自動販売機の前を通ったのです。その瞬間、またたく間にひらめいて、三百メートルも歩かないうちにほとんど全編頭の中で出来上がっていました。で、喫茶店に寄ってすぐにメモをとりました。その後3稿(実は6稿)まで細々書き直してはいますが、基本的には原型通りです。逆に言うと、原型から一歩も出ていないとも言えるので、最初の時点で「決まった」と思ったのが作者の落とし穴でした。
つまり、予定調和的というか、作者の掌の中に収まったものになってしまったわけです。
この「玉」は一体何なのか。作者(または主人公)はおぼろげながらも、実は分かっている。「何かの反映ではないのか」の
「何か」というのも分かっている。実際、ストーリー的にはその通りに展開する。しかし、実はこのような「玉」を創造?(想像
?)してしまったのには、作者も気づかないでいた無意識の心理や欲求(あるいは性欲といってもいいかもしれません)が働いていたのかもしれないのです。そこまで飛躍できなかったところに、この作品が小さくまとまってしまった原因があったのですね。
物をいくらかでも書いたことのある人なら、なにがしかのテー
マがあり、その意図した通りに書ければ、読み物としては、誰でもある程度のものに仕上げることが出来ます。
しかし、作品に引っ張られて、作者の思いもしなかった領域に、
いわば作者も拉致されるようなものこそ、文学です。
こういうことは人の作品については、よく分かるし、よく言っていることなのですが……。
ここは、芦原さんご指摘の「何より驚いたのは」の一文を省いたり、その他修正するぐらいでは済まされそうにありませんね。
今すぐ書き直せるかどうか分かりませんが、推敲というより、もう一度一から書き直してみます。
というわけで、五十嵐様、ML座会8月分の、
「玉」−−−最終稿〔01820〕3稿は、撤回します。
芦原様、貴重なご意見、本当にありがとうございました。
メーリングリストで以上のようなやりとりを経て、9月16日に4稿、9月22日に5稿をアップ。
玉 (第3稿) |
玉 (第4稿) |
■西山正義(9月22日)
おしまいの方を更に直してみました。 なかなかフィニッシュが決まりませんね。
更に結末を先送りした形になっています。
■芦原修二(9月23日)
『玉』5稿を読んで
「私は」で書き始めて、「一人しか人物の登場しない作品」は、「それを面白くするのがたいそうむずかしくて、大概は失敗する」といわれています。私もそう思います。それでつねづね、人物を複数出すことをすすめてきました。この作品がそこをなんとか外し、興味深い面白いものに仕上げているのは、「玉」それ自体に、人格を付与して、私に笑いかけたりすることが書かれているからだろうと思います。いうなれば、玉に0.5人格を持たせていることが、この作品を成功させた理由だろうと思うのです。しかし、この方法はナマジイな技術で実行しても成功できっこない、きわめてむずかしいものだとも思います。
そこで、初心者に、失敗しない方法を、というのでしたら、人物をもう一人出すのがおすすめです。たとえば、この販売所のオーナーの後ろ姿とか、集金にきているようすとかを加えるのです。すると、その姿に接する度に、主人公の心は大きく揺れ動いて、それが人間の内面の真実をあぶり出してくれるだろうと思うのです。
あるいは主人公の友達を出してもいいでしょう。玉を手にのせた瞬間、その友人の物言いを思い出し、いよいよ、その玉が大きくなったりする奇妙な秘密を知った時には、もうそのことをその友人に話したいと一心に思いはじめながら、反面、半日もたたない間に秘密にすべきだと真剣に考えこんでしまう。そして、これまで、なんでも話してきた親友を裏切って秘密にしてしまう。その心理の振幅を推察し、考え、書き込んでみることです。それによって、人間観察は一段と深まり、読者の同感を誘う事ができると思うのです。同時に、そうした描写を通して、作者の美学や、友情感、倫理観といってものもにじみ出てきて、作品にリアルな、存在感を与えてくれるだろう
と思います。
それにしても、無人販売所で見付けたこんやく玉とは魅力的な発想で楽しい作品でした。
■西山正義(9月22日)
芦原様 お忙しい中、再度のご批評ありがとうございます。朝、まだ半分寝ぼけながらパソコンを開いたら、芦原さんのメールが飛び込んできました。またまた目の覚める思いで読みました。たしかにそうなんですよね。
「玉を持ち帰った」と簡単に書いてありますが、その間、人の目は気にならなかったのか。農家の人でなくても、寮の管理人がその日に限って玄関を掃除していたりなんかして、なかなか部屋に入れないとか。
それで最初、それを入れてみたのですが、字数的にとても入らない。友人については、この「僕」はあまり友人がいないような設定なので、どうかと思いましたが、会社勤めをしていれば、同僚や上司がいるだろう。
そこでまたまた午前中いっぱいこね繰り回していました。メモを見ると、最初に書いたのは6月15日ですから、
3か月以上もいじくりまわしていることになります。今このメールを打っている間にも、一箇所直しました。
先程新たに付加した「仕事で失敗し」というのを、
より具体的な内容が分かるように書き替えました。本当は会話させたりするといいのでしょうが、そこまでは出来ませんでしたが、通信座会に出した最初の稿からは、二転三転大幅に変わっています。
もっとも、基本的な展開は変わっておらず、僕としてはどうしても会社を辞めさせる方向にもっていきたいのですが、それをそうとは書かずに、匂わせる程度に、しかも具体的にそう思わせるような内容になったかと思います。
しかし、この「玉」は縮むこともあるようなので、部屋の中でうまく
「飼って」、折り合いを付けることも出来るのかも知れませんが。そういう方向もあり得るという余地も残せました。
玉 (第5稿) |
玉 (第6稿) |
■芦原修二(9月24日)
『玉』すごい作品になりました。面白いです!
生活があって、玉の存在がもたらす不安と危険性が高まって、じつにすごい作品になったと思います。
何度もいいたい放題の感想を述べましたが、私も安堵し、同時に読んで楽しくなるのが、なんともうれしいです。
ありがとうございました。
芦原修二 拝
■西山正義(9月27日)
昨日(もう一昨日ですが)、実に久しぶりに東葛座会に参加しました。四年ぶりぐらいかもしれません。台風でソフトボールの大会が中止になったので、午前中は女房のママさんバレーの応援をしていたのですが、急に思い立って、昼からクルマをすっ飛ばし
たのでした。
当然作品の用意はしていなかったので、いろいろ問題の「玉」の、1稿・3稿・5稿・6稿と、今月の通信座会に出したままの「笑顔」を持っていきました。
まだこれから推敲予定の「笑顔」はともかく、「玉」について、しつこいようですが
もう一度。
短説の基本形である縦書二段組にプリントアウトしたものを、B4の用紙に二作ずつコピーし、二枚並べると(つまり四作並べると)、タイトルがみな「玉」の一文字なので、妙な感がありました。
それで読み比べたわけです。前日の24日に6稿を書き、三か月以上かかってようやく決着したかに見えました。芦原さんからも「すごい作品になりました」というお言葉をいただきました。
ところがところが、こうして並べてみると、3稿・5稿は論外として、にわかに1稿が魅力を帯びてきて、捨てがたいものに思えてきたのです。座会後も、五十嵐正人さんのお宅にお邪魔し、十時半頃までいろいろ話し込んでしまいました。
どういうわけだろう。6稿は、たしかに完成された感がある。しかし、なぞりになぞってお手本通りの綺麗な文字に仕上げたといった感じがある。対して1稿は、細かいところでは齟齬があるが、一筆書きの力強さがある。何かよく分からないが、直感で何かを掴んでいる。というか、直感そのままというか。
そして結論として、6稿はより小説的であり、1稿の方がはるかに「短説」らしいのではないか。なぜか。
それは、僕自身が最初に問題にした、「会社を辞めた」という最後の一文。これがいいのか悪いのかよく分からないというところから、推敲(というより書き直し)がスタ
ートしたといっていいのですが、実は1稿では、僕はその最後の一言にすべてを「賭けた」のでした。
そしてそれが、伏線も何もなく、つまり6稿のように同僚のことも、仕事のことも、
上司のことも何もそれを匂わせることもなく、トリッキーに大団円を迎える。アパートを引き払うのはいいとして、なぜ会社まで辞めなければならないのか。何の伏線もない。この心理、分からん人には分からんでもいいという書き方だ。唯一の伏線は、もう一つ問題の一文「こいつは何かの反映ではないのか」であるが、これでは具体的なことは分からない。しかしその方が、「短説」なのではないか。
ここまでは昨日五十嵐さんと話し合ったことです。で、ここで、僕なりの最終的な結論を先に言っておくと、それでもやはり6稿を採るべきだとなったのですが、それには紆余曲折を経ます。
まず、もう一度振り出しに戻って、1稿の基本構造を変えずに、最小限の手直しをしてみました。本来なら、それは、MLに出した2稿に近づくはずです。2稿では「会社を辞めた」というのを、「アパートを引き払った」と入替え、力点を弱めていますが、それを戻し、より1稿に近づけようとしても、やはり1稿とも2稿とも違ったものにな
りました。やはり、すでに6稿まで進化してしまったという事実は消せず、1稿の直すべき点を修正しようとすると、一部は6稿で採用した文言が出てきてしまいます。いまさら2稿を書こうとしても、7稿になってしまう。
そうして、その7稿と6稿を較べると、6稿の方がいいのだ。なんたることか。通信
・ML・東葛を経て、二転三転振り出しに戻ったり進化したり。しかし、東葛でプリン
トアウトしてみなさんに読んでもらうと、6稿にも欠点があることが分かった。
まず漢字が多い。正確にいうなら、漢語が多くなっている。改行の頭一文字分以外、ほとんど字数に余裕がなく、無理に詰め込んだ感があり、「玉」というには堅い印象がある。
これは単なる印象ではなく、1稿より6稿の方がはるかに論理的になっているからだ。
さっきの議論ではないが、あっちこっちに伏線が張られ、構造的には「小説」に近づいているからだ。
また前の話に戻るが、だからもしかしたら、「短説」としては1稿の方がいいのかも
しれない。優れているとは言えなくても、少なくとも面白みはあるだろう。しかし1稿は、明らかに観念的だ。6稿は、芦原さんがご指摘するように、もっと生臭い生活感が滲み出ている。もっとはっきり言ってしまえば、より真実に近いのだ。「二十世紀の近代文学」的真実という意味で。
実を言うと、僕としては、1稿も6稿も、まったく同じことしか言っていないのだが。1稿の力強さは、最後の一文に賭けた強さ、6稿の力強さは、泥臭さ。質が違う。しかし全体的にどちらが強いかというと、観念よりも、生活である。故に、6稿を採ろう
と思う。
しかし欠点もないことはないので、さらに直しました。なくてもいいような部分はカットし、漢語を減らし、一部の漢字をひらがな表記にしました。部分的には1稿の形に戻しているところもあります。一つ飛びますが、それを8稿として次にアップします。
これとて、現時点のとりあえずの最終形に過ぎないかもしれませんが。
ところで、これは何月分の作品になるのだろう。とりあえず僕の担当の7月座会分からは外しました。(実は採用する予定で、配列順の場所を空けておいたのですが)
もう一つ裏話。1稿を書いたあと、これを膨らまし、小説にしようという案が生まれました。実際、最初に手帳にメモした草稿は、原稿用紙に直せば四枚ほどありました。
その草稿を含めて、11種類の原稿が残っていますが、最後にきてそのどれもが使えないような気もしてきました。小説に近づくのは仕方ない運命だったのかもしれませんが、小説にするなら何も短説に無理に当てはめる必要はないという議論も成り立つ。1稿は、あくまでも「短説」として発想され、そのように書かれているので、これだけ短説として残し、あとは小説に譲る。実際6稿は、もう小説である。ここまで書くなら、小説ほどではなくても、もう少し長い小品あるいは掌篇、つまり短説でなくてもいいのではないかというのが頭をよぎる。また堂々巡りなのだが、しかし、1稿は不完全である
。また、6稿(8稿)にしても、小説のダイジェストかというと、そうではない。やは
り短説として書こうとしたものであり、ということは、これも「短説」といっていいのだろう。
長々と独り言のようなことを連ねましたが、短説はそれ自体、実験的な形式であるか
ら、単に二枚で書けばいいというようなものではなく、常に方法が問われるものである。それを理屈ではなく、今回は実作でいやというほど再確認させられた次第です。もっとも、形式がなければないで、小説だって同じことで、いやあらゆる創作に言えることで、そこが、おそらく何かの境目でしょう。
玉 (第8稿) |
■五十嵐正人(9月27日)
「玉」について、決定稿の方向性が決まったようで、とりあえず良かったです。僕は初稿支持なのですが、今回の西山君の悩みは、物凄く高い水準の選択肢の悩みであり、どっちに落ち着いても、納得できるものです。
そんなわけで、安心して僕なりの「玉」への読後評を書きます。もちろん初稿支持の視点からですが、もう方向性は決まったようなので、参考になれば、程度のことです。
1稿が優れている点。それはなによりも主人公が生きている点です。
第一のポイントは1稿最後の「会社も辞めた」の一言でした。このいっけん唐突な一言について、作者は2稿以降、説明をはじめています。それは、リアリスムに近づいている風でありながら、実は作品を薄くしてしまっているのです。
つまりこういうことです。1稿の「僕」は作者の意図からはかなり自由な存在でした。だから、後に理由の説明の必要な「会社も辞めた」などということを突然言い出すのです。この登場人物が、作者から自由であるということがとても大切なことなのです。ところが、作者はこの突拍子もない「会社を辞めた」という発言について、読者に対してわかるようにし始めたのです。
8稿ではそれは、次のようになっています。
> 発注を間違えたり、部長に呼び出された日
> は、そいつに八つ当たりしたり。時に縮んで
> いたりすると、僕はまた触らずにはいられな
> くなる。同僚は、こんな僕にもついに女がで
> きたかと言う。曖昧にこたえるしかない。
> 朝起きる。会社から帰る。週末はどこへも
> 出ない。訪れる者もない。
これによって読者は、この「僕」が会社でいやな思いをしていることを具体的に知ることになります。しかし、これはリアリスムでしょうか。僕には、とても常套的エピソードに思えます。むしろリアリティが弱まっていると思うのです。
さて、そして「僕」は推敲作品では、まったく自由を失ってしまっています。1稿でできたストーリーを進行させるための狂言回しであり、作者の思う通りに、「発注を間違え」「部長に呼び出される」作者の手先になってしまっているのです。
このことが、僕が8稿を支持しない最大の理由です。
作品は確かに「知性で読む」には明快になりました。しかし、その分「心で感じる」
ことが希薄になりました。それがつまり「僕」が作者の知性で動かされていることの弱さなのだろうと思うのです。
8稿で、読者は何を読み取るでしょうか。せいぜい、「僕」が会社で苦労しているんだ、とか、そこから逃避しようとしているんだ程度にしか、知性での理解はできないのではないでしょうか。
さて、それでは、1稿は何を読み取らせてくれるのか。それはもっと深く心で感じる不安です。
1稿の二番目のポイントは最後の方の「人間が入る隙間もなくなった」という表現です。これもまた、おそらく作者の意図というよりも、「僕」が書かせた分のように思えます。
人間が入る隙間がなくなったから出て行く、ということ。このことが表しているのは、1稿の中で、「僕」に変化が表れているということです。それはつまり「僕」が生きているということに繋がります。8稿の「僕」はストーリーを展開するための作者の忠実な下部です。ですから最初から最後まで普通に人間です。しかし、1稿では、人間でなくなっている、おそらく玉を摩るたびに、そして玉が大きくなっていくほどに、「僕」は人間でなくなっていったのです。この不安が、1稿を貫いていま
す。この不安が生まれてきた原因は、すなわち「僕」が主人公の意に反して、生きていたからなのです。
そしてこの不安を感じた読者は「会社も辞めた」で痛切なカタルシスを感じるのです。男にとって会社を辞めるということの重さが、その前の人間でなくなったことに、はっきりと繋がるのです。たとえばリストラされて自殺したり、逆にリストラする立場に耐えられずに自殺する人達がいます。働き盛りで妻子を養っている男にとっ
ては、会社を辞めるということは、本当に死んでしまうようなことなのでしょう。あるいは死なないまでも精神的に病むようなことはあるはずです。「人間が入る隙間もなくなった」という一文と「会社も辞めた」の一文は、心に突き刺さるリアルなのです。それは知性で読み取れるリアルとは比べ物になりません。
よく、短説は気がつかなかった自分自身に気づかせてくれる、などといいますが、作者の西山君自身、ここで何かを気づくことができたのではないでしょうか。仕事がどんな具合なのかはわかりませんが、たとえば「小説を書く」ということを「仕事」に例えたなら、「小説を書けなくなったら、自分が自分ではなくなる」ような不安や、
そうしたものを潜在意識の底でかんじたりはしていないでしょうか?(たとえば、ですよ)
1稿は、単なる会社でのいやな事や、そこからの逃避以上のことを、読者に感じさせる作品なのだと思います。
さてさて、それを踏まえて、僕が考える1稿の推敲案は、次のようなものです。自由に生きている「僕」の自由を奪わないことに注意して考えました。
冒頭で、「僕」にその日会社であった事の回想をさせます。しかし、それは8稿のようにネガティブなものであってはいけません。それでは、作者が「僕」にそういう運命を与えてしまいますから。
冒頭でたとえば、こんな内容を「僕」は回想するのです。
(分かりやすいように、JR西日本風に)また今日も反省文を書かされてしまった。
たった2分遅れただけなのに、同じ文章を100回も。手の感覚が、戻らない。なんで、いつも僕だけ。でも、今日もホームで僕が運転する電車の写真を撮ることも達がいた。うん、頑張ろう。あしたも頑張ろう。・・・みたいな・・・。もちろん、これは例ですが、このことのミソは、「僕」がネガティブとポジティブのバランスを微妙にとっていることです。そして、常套的ではないエピソードを具体的に書く事。さらに、ちょっとした孤独感。この孤独感があれば、読者はその後で、玉が「僕」には笑ったように思える事も、それを買っていく「僕」の心理にも、共感できます。
こうした部分を、冒頭に加えるだけで、おそらく1稿は、「僕」の自由な人格を泳がせたままで、知的な理解でのリアリティも増すのだろうと考えます。
さてさてさて、どうしてこんなことを書けるのかというと、つまり、もう西山君の中で、8稿の方に決まっているからです。僕の意見に、もう左右される事がないという
安心感からなのです。
で、8稿ですが、それでもなんでも、高い水準の作品です。ただ、一カ所助言するな
ら、
> のか。部屋いっぱいにまで膨らんだら……。
この終わりは、いけないと思います。1稿では、とにかく「僕」が責任をもって作品を締めくくっていました。しかし「部屋いっぱいにまで膨らんだら……」という読者に解決をゆだねる書き方は、あまりよいとはいえません。三人称の作品ならともかく、一人称の作品では、余計に良くないのです。読者の前に、突然作者が顔を出したような印象になります。「部屋いっぱいにまで膨らんだら、あなたはどうしますか?」と、問われているような感じなのです。
五十嵐正人
■西山正義(9月28日/午前1時40分)
五十嵐さん、ありがとうございます。
うーん、この作品はもうこれ以上修正不能のような気がします。
今にして思えば、1稿は、もうこれで完成品で、直せるようなものではなかったのかもしれません。1稿と8稿は別物です。
最初の推敲点は、自動販売機を無人の販売小屋にすることだけでした。今まで聞いた誰もが、自販機より無人販売所の方がいいと言います。しかし、僕としては、自動販売機なのです。そもそもの発想がそこにあったからです。
今になって、2稿を書こうとすると、7稿になってしまうというのをもう少し説明すると、たとえば「皿」です。最初はどんな皿でも良かったのです。独身一人暮らしの男性の家にある皿なんて高が知れたもので、せいぜい小さめのとカレーライスがのるよう
な大きめのが一つか二つあるぐらいでしょう。それを、3稿だか4稿だかで「引き出物の皿」にしたのです。しかしこれでは中途半端なので、「同僚の披露宴でもらった皿」
にし、それをさらにわざわざ「引っ張り出して」くることにしたのです。ここに至って
、この皿はもはや、何でもいい皿ではなく、固有の皿になりました。そうしてみると、
この皿は是非ともそうでなければならないような気になってきます。ここにすでに「物語」ではない、プロットのある「小説」的構造が入ってきてしまったのです。ここで一度「同僚」などというのを出してしまったので、後半にもそれに対応する一文が入ってきます。1稿に戻すなら、この皿も何でもいいそこらにあった皿に戻さなくてはなりません。
いや、1稿は、直すべき点もあるにせよ、やはり直せないのだ。細かい部分を一つでも直すと、結局、2稿・3稿・4稿・・・8稿と進化(あるいは退化)していった過程を繰り返すことになる。今までとはまったく別の行き方もあるかもしれませんが、それはそれでまた別の作品になるでしょう。
6稿をさらに修正した8稿を最終的に採るといっても、実はなおも、最後の「会社も辞めた」の一文に集約した1稿も捨てがたいという思いも消えないのです。しかし、それをもう少し整えた2稿を書くことは、もはやできない。最初の一筆書きは、あとからでな二度と書けないということなのでしょう。その一筆書きをなぞり、少しでも修正したら最後、やはり8稿まで行かざるを得なくなる。
だからこれは、1稿と8稿を別の作品として残すしかないのかもしれません。しかし
それは、一種の反則技でありましょう。
まあ稲垣足穂なんかは、繰り返し繰り返し決定稿を更新しているので、また日を置いて9稿を書くかもしれませんが。
五十嵐さんの1稿の修正案ですが、この作品には最初からポジティブ面はありませんでした。おそらく最初から(玉を見つける前から)道は決まっていたものと思われます。
変な「玉」を見つけて云々となっていますが、そもそもそんな玉は最初からあったのかどうか。
昨日、6(8)稿の方が、「より真実に近いのだ」と言いましたが、そのあとに、「
『二十世紀の近代文学』的真実という意味で」というのをわざわざ括弧付きで付け加えています。これはもちろん肯定的な意味で言ったのではありません。これはどういうことかということを説明するとなると大変なことになるのですが、簡単に言ってしまうと
、二十世紀の小説(文学)は、「近代的自我」をどうやって表現するかというのが最大至上のテーマだったといえます。しかし、短説は、そもそも、その「近代的自我」っていうやつに疑いを持って始められたのではないか。つまり、二十世紀的小説を超克しようと。
そう考えてくると、1稿の方がむしろ進化形であると。
やはり、玉を見つける前も、玉を見つけ家の中で飼育?し始めてからも、何の伏線もなく(つまりプロットもなく)、因果関係も必然性もなく、結末でいきなり会社を辞めてしまう1稿は捨てがたい。そして何より、作者自身の気持ちに一番近いのは1稿だったりもする。
8稿は、誰が読んでも分かりやすいようにしている面がある。1稿はかなり我が儘というか、作者本位というか、なぜ最後にいきなり会社を辞めるのか、分からんやつには分からんでもいい、僕にしてみれば、そんなことは「当たり前」じゃないか、というのが本当の気持ちです。
あれ? またまた振り出し? もうこれは作者には判断不能だ。1稿から8稿まで書いてしまった。1稿にも愛着があるとはいえ、いろいろな人の意見を聞き、そこに自分の判断を加え、ともかく8稿まで書いたのも、また作者自身である。
今、そのどれもがすでに公開されていて、残っている。好きなのを選んでくれと、開き直った方がいいのかもしれない。もっともそれを読んでいるのはMLの人だけなのですが……。
■西山正義(9月28日/午前3時38分)
性懲りもなく、9稿をアップします。
8稿まで進化してしまった前半は、もうこれでいいと思う。
しかし、五十嵐さんご指摘のラストは、再考の余地がある。6稿から8稿を書く際、手を着けられずそのままとなっていたのですが、
実は納得のいくものではありませんでした。
こんなやり方があるのかどうか分かりませんが、8稿にいきなり1稿を移植しました。
加えて、「発注を間違えたり、部長に呼び出された日は、そいつに八つ当たりしたり」というのを削りました。
おそらく、小説的に言えば、こういう部分がより生活に近づき、
リアリティーを増すものだと考えられるところですが、
僕的には、これはまったく違う。
会社を辞めるのは、仕事がうまくいかないだとか、会社でいやのことがあっただとか、そういう「理由」や確たる動機があってのこと、ではないのです。
因みに言うと、「同僚」が出てくるのは残しましたが、
同僚等との人間関係がどうたらこうたらという「含み」はありません。
ただ、皿は、ジバンシーかなにかの引き出物の皿の方がいいだろうということです。
この9稿がいいのか悪いのかは相変わらず分からないのですが、
最も1稿に近く、最も8稿に近いことになりました。しかしそれは形の上だけで、もしかしたら、
最も両方に遠いことになってしまってはいないか。
しかし僕としては、やはり結論を出したくなってきました。
(推敲の結論ではなく、ストーリーの結論を)
なにがあっても、この「僕」はいずれ会社を辞める筈だからです。
(会社を辞めてしまっている僕が言うのも何ですが……)
玉 (第8稿) |
玉 (第9稿) |
■米岡元子(9月28日)
私は「玉」1稿が好きです。勢いがありました。
ですが、9稿は初稿に近く読めました。
マイケルジャクソンの顔を思い浮かべました。何度も整形を繰り返してまだ納得がいかないでいる。考えてみれば、親から授かった顔が多少気に入らなくてもきっと一番良いのだと思います。
あ、ごめんなさい。この「玉」作品には関係がありませんでしたね。
私がどうにも出来なかった作品を思い出しました。
最初の書こうとしたときの思いは推敲しているうちにどこかへ飛んでいってしまい
自分でも解らなくなって、自信を失いましたっけ・・・
その点、西山さんはもう一度原点に戻ってみて良かったと思います。
■五十嵐正人(9月28日)
これ、良いです。僕が先に書いた読後評のアイデァは間違っていました。冒頭に、会社絡みの伏線などいりません。そこに伏線を書くことではなく、8稿から、会社絡みの部分を外すだけでよかったのですね。
そして、終わりは、1稿に戻したのが正解でしょう。
思ったのですが、2〜8稿に至る推敲は、必要と思われる部分を書き足したり、別のことに書き換えたりというプラスのベクトルを持った推敲でした。それに対して今回の9稿目は、必要と思われる部分を削ったり、元に戻したりという、マイナスのベクトルを持った推敲なのだと思います。この「必要と思われる部分」を削ったり、振り出しに戻したりということが、一つの推敲の技なのだと感じました。「必要と思われない部分」なら、いくらでも削れるのですよね。「必要と思われて」書いたことや変えた表現をなくしていく事の難しさと、それができてはじめて作品が際立っていく事を目の当たりにしました。
新たに書き加えられた部分では、ここが秀逸です。
> しかし、僕がいない間に縮んでいたりもす
> る。僕はまた触らずにはいられなくなる。
8稿までは、ただただ膨張するだけだった玉が、この9稿では収縮をします。予定調和ではないリアルがよみがえりました。
「必要と思われる部分」を削ったことで、「僕」も鎖から解き放されたように動き出しました。
これは、やっぱり9稿で極まったのではないでしょうか。
■西山正義(9月28日/午後11時50分)
ふーう、やっとこさ落ち着きましたかね。
世界一周から帰ってきたような気分です。
9稿は1稿に直結するものですが、2稿〜8稿までの推敲の過程がなければ、絶対に生まれなかったものです。
一番小説に近い6稿を経て、8稿で行き着く所まで行きました。
そこから、起死回生一発逆転、一か八かの綱渡り的強制手術をし、一気に1稿まで戻ってきました。しかしそれは、1稿の次に来る2稿ではなく、
最も遠いところの8稿を経ての9稿。
おそらく、行き着く所まで行ったから、こういうサーカスもできたのでしょう。
たとえば5稿あたりに1稿を移植しても、うまくはいかなかったでしょう。
実際今回のは、推敲というより、1回1回がほとんど書き直しで、
その度に、ここまで変えたら作品が壊れるんじゃないかというような大胆な改変も試みています。そして、その稿を書いた時点では、
それがベストだと思っていたのです。
2稿〜8稿の過程を知らない人が読んだら、1稿から9稿にあたかもこれが2稿であるかのように自然に移行したとしか読めないかもしれませんが、細かい点を注意深く見れば、格段に進化している筈です。
芦原さんに「すごい作品になりました」と言われた6稿と、その発展形である8稿からは果てしなく遠ざかりましたが、
僕としては退行したつもりはありません。6稿や8稿を押し進めたら、その先は小説に譲るしかないのではないか。
今回の推敲中、僕が考え続けていたことは、「短説とは何か」ということです。
短説として、これでいいのか悪いのか。
僕が1稿の時点で問題にした部分に、結局は戻ってきたのですが、
世界を一周してきて、また元の同じ家に戻ってきたとしても、
戻ってきた僕は、前の僕とは確実に違っていることでしょう。
いやはや、僕も疲れましたが、読まされる方もたまったものじゃありませんね。
通信・東葛・MLのみなさま、ありがとうございました。
よもや10稿はないものと思います。
■芦原修二(10月5日)
しばらく忙しくて、感想を送れないでいました。
9稿目まで出されたことに敬意を表します。何稿か重ねる間に、「玉」と「僕」だけの世界に、「僕」に女友達が出現することを心待ちしているらしい同僚を配しました。
これによって「僕」の生活に多面性が出てまいりました。ここはまた西山さんの苦労されたところで、「玉と僕」という、主題を担う主人公たちのイメージを、他の登場人物によって拡散させないよう、かなりひそやかに、そっと置いたといった、感じであって、作者の思いがよくわかる改稿でした。
なお、この9稿になってまで、気になるといえば、申し訳なく思いわずもがな、とは思いながら1個所。少しご思案いただければ幸いです。
> い。僕が近づくと、その玉がニッと笑いかけ
> てきた。僕は思わず振り向いた。
というところです。玉が笑いかけてきたのですから、視線はすでに玉に向いています。それなのに「振り向いた」は少々矛盾を感じさせる表現です。視線ではなく、行動にしたらいかがなものでしょう。たとえば、僕が「思わず立ち止まった」とか。
……ほかはもう申し上げるべき「隙」のようなものは感じられません。
しかしよくがんばったものです。この苦労はきっと豊かな稔りをもたらしてくれるでしょう。
■西山正義(10月6日)
芦原さん、度々ありがとうございます!
> > い。僕が近づくと、その玉がニッと笑いかけ
> > てきた。僕は思わず振り向いた。
> というところです。玉が笑いかけてきたのですから、視線はすでに玉に向いています。
> それなのに「振り向いた」は少々矛盾を感じさせる表現です。視線ではなく、行動に
> したらいかがなものでしょう。たとえば、僕が「思わず立ち止まった」とか。
たしかにそうですね。「立ち止まった」というような動作をすっ飛ばしていたというか、僕としては、「振り向いた」というのは、うしろに人がいないかどうか気になって、周りを見回したという設定だったのですが、その前に立ち止まるなり、もっと近づくなりしているわけですものね。
それに、本当は、「思わず」という形容動詞は、それこそ「思わず」使ってしまいがちなのですが、甘い表現といわねばならないでしょう。
ここは、「思わず」としか言いようがないような場面ではありますが、思い切って「思わず」はカットし、単に
「僕は立ち止まり、辺りを見回した。」ぐらいがいいかも、ですね。
これなら、視線や動作上の不整合もなくなると思うんですが。
やっぱり、10稿目がありました。まあ、キリが着いていいかなと。
ところで、話はちょっと変わりますが、この9稿目についての米岡さんの感想で、気になっていたことがあります。米岡さんは下記のようにおっしゃられています。
『私がどうにも出来なかった作品を思い出しました。最初の書こうとしたときの思いは推敲しているうちにどこかへ飛んでいってしまい自分でも解らなくなって、自信を失いましたっけ・・・
その点、西山さんはもう一度原点に戻ってみて良かったと思います。』
これ、僕としては、ちょっと違うんです。
たしかに結末は、最終的には原点の1稿に戻したわけですが、それは作者が最初に書きたかった「思い」を貫き通したとか、優先させたとかとは違うんです。つまり作者の「我」を通したわけではないのです。現時点ではすでに四か月近くも繰り返し書き直した稿の中から、「これが短説である」という僕なりの答に、一番近いものを選んだに過ぎないのです。
作者の思いだとか、原点だとかには、実はあまり関係ないのです。(全然関係ないわけではありませんがね)
僕は、 『人生は一行のボオドレエルにも若かない』
という芥川龍之介の言葉を、至言だと思うような人種なのです。もっとも、これはいささか気取った一種のはったりみたいなもので、
芥川だって、 『わたしの愛する作品は、──文芸上の作品は畢竟
作家の人間を感ずることの出来る作品である』
と言っているのですが。 一応出典を確認しようと思って、『侏儒の言葉』をパラパラめくっていたら、
こんな言葉もありました。
『芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である』
短説は、いや同人雑誌というのは、作者がその両方を兼ねていて、よき作者であると同時に、よき鑑賞家である必要があるのではないか。
(僕も今回その恩恵を大いに受け、身に沁みて分かりました)
■芦原修二(10月6日)
「周りを見回した」に賛成します。
やっと、というよりは、明確に、この玉と出会った時の「僕」の心情がわかりました。玉は、これからはじまるだろう危険な、もしかしたら、自分の生活を破綻させるかも知れない麻薬的な誘惑を微笑で示していたのですね。その誘惑に既に乗ろうとしちゃっている「僕」の思いが、僕自身にもわかっていて、それは、他者に知られてはならないことだと直感し、周りに人の視線がないかを探らせたというわけなのですね。そしてさらには、用心のためにカバンでかくすまでしたのですね。これでよくわかりました。この「周りを見回した」という心情に賛成です。
■西山正義(10月7日)
芦原様、本当に何度もありがとうございます。
そう言っていただいて、僕もこれで「明確に」分かりました。
玉の笑いは何なのか、実は作者自身にもよく分かっていない部分がありました。おそらく、1稿で「思わず振り向いた」と書いた時は、ほとんど無意識のうちに「思わず」書いていたのかもしれません。この、玉を見つける場面は、自動販売機から無人販売所に変わってはいますが、実は現実そのままで、(もちろんそんな玉があったわけではありませんが)、実際の僕の行動そのままなんです。
「鞄で隠す」というのはあとから付け加えたことですが、
「周りを見回した」というのは本当です。実際に、へんな玉があったわけでもないのに、そういう想像が浮かんで、あたりを憚って見回している作者の方が、よほど変ですよね。しかも、
ほとんど駅前で、周りには人もたくさんいたので、「なんだこいつ」と思われたかもしれません。
つるっとした球体がどうやって笑うのかは疑問ですが、
「僕」がそう見えただけで十分なんです。
だぶん、その時、玉が僕に乗り移っちゃったんでしょうね。
重ねて、芦原さん、感謝です。やっぱり「協力」ですよ。
玉 (第9稿) |
玉 (第10稿=決定稿) |
■西山正義(10月7日/午前2時38分)
拙作「玉」では、たいへんお騒がせ致しました。一応、決定稿を完全な形でアップしておきます。
最初に書いたのが6月15日。長い道のりでした。
今では、なんだか、本当にあったことのように思えます。いや、僕の部屋では、今も玉が膨らみ続けているのかもしれません。
身動きできなくなるまでになったら、僕はどうするか。たぶん分かっている。(まあ、それは作品とは関係ないことですが)
みなさん、お疲れさまでした。
■五十嵐正人(10月7日)
8月座会号の編集の方は、まだすべての座会から作品と要約が届いているわけではないので、しばらくかかりそうです。ですから、じゅうぶん間に合いますし、必要なら11稿でも・・・。って、本当に今回は、10稿で決着した感じですね。
推敲の実践の様子をリアルタイムで見ることができて、僕らも勉強になりました。ありがとうございます。
長い道のりを経て、拙作「玉」は、月刊「短説」平成17年11月号の巻頭に掲載された。
■五十嵐正人(11月号)
▼巻頭四作は、頭一つ抜け出た傑作。「玉」は推敲という闘いを経て、短説史に残る名作になりました。僕は多忙が過ぎて編集担当を辞すこととなりましたが、最後にこの作品を選べたことが嬉しいです。(中略)▼編集担当になった頃は少なかった推敲作が、今は増えています。これからも推敲を続けてください。 (五十嵐)
■道野重信(12月号)
▼今月号は9月に発表された作品です。9月の特記事項は西山正義さんの『玉』がML座会を中心に綿密に推敲が繰り返されたことだと思います。短説を代表する素晴らしい作品が誕生しました。巻頭作にする予定でしたが、決定稿(第十稿)が十月入ってから発表されたため、十月の収穫として判断し今月号には掲載いたしませんでした。短説全体の宝物になることを願います。編集後記なのに掲載してない作品のことばかりかいてすみません。 (道野)
決定稿擱筆から、さらに四ヶ月経ち、こうして推敲の過程をまとめてみると、自分でも思った以上に、壮絶なものがありますね。しかし、楽しい作業でした。たぶん、それが大事。
(平成18年2月4日/西山正義)
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