二十一世紀、五年目、十年目、十五年目西山正義 |
二十一世紀も五年目 ・ ・ ・ 今日は三島由紀夫の誕生日。生誕八十年。 つまり、存命なら満八十歳。生きていても不 思議ではない。あれから三十五年。日本はど うなったのか。 遥か遠い未来のことだと思われていた二十 一世紀も、すでに五年目。私なんかが小学生 の頃思い描いていた二十一世紀は、結構とん でもない想像をしていたわけだが、さすがに そこまでは進歩(?)せずに、実現されなか ったこともある。反面、当時はあまり想像し ていなかったようなことが実現されている。 人間の想像力も、やはりその時代に影響され ていて、限界があるということか。しかし同 時代人として、時と一緒に歩んできた者には、 さしたる驚きはない。一足飛びに飛び越して きたら驚くだろうが。 ・ |
今日電車の中で見た親子。三歳ぐらいの娘 が母親の携帯電話をいじり、「もしもし」な どとやっている。この子は生まれた時からす でに携帯電話があるのだ。平成生まれのうち の娘だって、生まれた頃にはなかった。ただ 音が鳴るだけのポケベル。重役クラスがよう やく自動車電話。インターネットはすでに開 発されていたのかもしれないが、一般に普及 するのはずっとあと。 昨年末再放送され、相変わらずの高視聴率 を挙げた「踊る大捜査線」などは、つい最近 のドラマだと思っていたのに、その初回の放 送時に流れていたCMは、なんと「最新式」 のポケベル。まだ携帯電話の時代ではなかっ たのだ。 IT革命といわれるが、インターネットと 携帯電話の普及が私たちの生活を大きく変え た、というのは誰も異存はないだろう。しか し、人間精神の根本は相変わらずで、日本は、 世界は、ますます迷走するのみ……。 ・ |
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二〇一〇年のアリバイ ・ ・ ・ 二〇一〇年も暮れていく。あんなに遠い先 のことだと思っていた二十一世紀もはや十年 が過ぎてしまったわけだ。娘が大学に入り、 息子も高校一年になった。もう彼らの時代だ。 “失われた時を求めて”といっても、とても 取り返せるものじゃない。途轍もなく長い歳 月が流れ去ったのだ。 それでも今年の年末は、二つの“時間”を 取り戻す(あるいは取り戻せそうな予感がす る)ことがあった。一つは、中学からの友人 (というより音楽仲間)のライブに行ったこ と。ライブそのものもそうだが、それ以上に 友人の変わらぬ“思い”に触れたこと。 もう一つは、小川和佑先生の文学ゼミで、 九州に移住した後輩が十四年ぶりにラドリオ が営業している間に帰省できるというので会 ・ |
ったのだが、それが思わぬ大同窓会になった。 「ラドリオに集合」の一言で、声をかけた全 員が間違うことなく集まったのだ。その十名 こそが、二十二年前に発足したゼミOB会の コアメンバーなのだった。しかしこの十数年 その全員が揃うことはなかった。全員が、そ れもあたかも以前と変わらないが如くに一堂 に会せるとは。その快挙に何かの予感。 ところがそんな矢先の晦日、つまり昨日な のだが、父親がやらかしてくれた。ブレーキ とアクセルを踏み間違えて、自宅の壁と車を 大破させたのだ。怒鳴る気にもならない惨状 である。車の運転に関しては父もバリバリで あったはずだ。“老い”である。二歳年上の 芦原修二氏が電車接触事故を起こすのも、七 歳上の小川先生が数年まえ膝の腱を切ったり するのも無理はないのかもしれない。 そして短説。一九九五年に復帰して以来、 十五年間、年に最低でも一作は書いていた。 これはその十六年目のアリバイである。 ・ |
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三島由紀夫生誕九十年の日に ・ ・ ・ 平成二十七年一月十四日。すなわち本日は、 三島由紀夫生誕九十年の日である。大正十四 年、西暦でいえば一九二五年の一月十四日生 まれ。例の自決は昭和四十五年十一月二十五 日。四十五歳であった。ということは、生ま れてから、その死を挟んで、年月はちょうど 折り返してしまったわけだ。死んだのが四十 五。そして、あのような死から四十五年! 十一月二十五日という日を、僕は今でも一 番大事に思っている。もう一つ、僕が個人的 に「創作記念日」と名付けている九月二十日 が、僕の第一の師である小川和佑先生の命日 になった。それからジョン・レノンの日。 はじめて憂國忌に行ったのは昭和五十五年 だった。いわゆる三島事件からちょうど十年 目。当時は、すでに十年も前の歴史的な出来 ・ |
事のように思っていたが、今にして思えば、 わずか十年前のことだったのだ。事件(いや、 やはり「義挙」と言おう)から四十五年。あ の「十年祭」からでも三十五年もの年月が経 っているのだった。 昭和三十三年発行の『三島由紀夫選集8』 で短篇「遠乘會」を読んだ。十五歳の時から もう何度読んだことか。大学の卒業論文でも 扱った。今更新しい発見もないと思っていた ら、一昨年の秋にソフトボールの大会で行っ た会場が、まさに舞台になっている江戸川の 市川橋であったことに今気づいた。昭和二十 五年四月、三島二十五歳も参加したパレスク ラブの遠乗会の写真が選集の口絵に載ってい る。もちろん風景は激変しているが、同じ場 所に違いない。僕らのチームは都大会で地区 代表として悲願の初優勝を成し遂げたのだ。 しかし、そんなことをしているはずだった のか。今日という日、僕がすべきことは? 最低限、書くことは書いたが……。 ・ |
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西山正義の短説(4)〈拾遺集〉&(5)〈最新作〉 |