短説と小説「西向の山」 ホーム西山正義の短説(5)>この十年の短説<随筆の庭


この十年(平成後半三分の一)の短説
  ―平成二二年〜三一年の個人的な記録―

西山正義




   この十年(平成後半三分の一)の短説
     
―平成二二年〜三一年の個人的な記録―

 

  五月一日、浩宮徳仁親王殿下が第一二六代
 天皇として御即位され、いよいよ「令和」の
 御世になった。それからはや十日。
  平成の後半三分の一の十年間で、書いた短
 説はたったこれだけ。これ以外に私信として
 書いたものが一作あるのみで、それを加えて
 もわずか十作。しかも、すべて「創作」とは
 いえない個人的な日常を綴った随筆である。
 ブログの日記を単に短説の形式に当て嵌めて
 書いたものに過ぎない。絶望的である。
  短説の会が月刊誌その他刊行物の発行停止
 を決めたのは、芦原修二代表が電車事故に遭
 った翌月の平成二一年七月である。それでも
 その時は新体制に移行する予定であった。し
 かし、藤代日曜座会の横山とよ子さん、元東
 葛座会の相生葉留実さんに続いて、上尾座会

 
 の川嶋杏子さんが他界し、中心メンバーを失
 った上尾座会はその年の暮れ限りで解散した。
 その後も東京、藤代、関西では座会が続けら
 れたが、平成二二年春以降本部の機能は停止
 し、文学結社としての短説の会は終焉した。
  短説はワードプロセッサの普及により創始
 されたものなので、インターネットとも相性
 がいいはずなのだが、ネット時代に乗れなか
 ったのが敗因である。それと、短説は最初か
 ら最後まで芦原修二さんあってのものであっ
 たということがいえる。その芦原さんだが、
 実はその生死すらわからない状態なのだ。
  短説の会が瓦解した平成二二年以降、平成
 の終りまでの十年間、個人的な最大の変化は、
 恩師小川和佑先生が亡くなったことと、仕事
 が激変したことだ。しかしそのことはまった
 く語られていない。そして令和になったタイ
 ミングで、地元の健全育成委員会による小学
 生ソフトボール部の監督を引き受ける羽目に
 なってしまった。残りの人生どうなるのか。

〔初出〕令和元年5月10日「西向の山」(このページ)

友人のライブ

    二〇一〇年のアリバイ



  二〇一〇年も暮れていく。あんなに遠い先
 のことだと思っていた二十一世紀もはや十年
 が過ぎてしまったわけだ。娘が大学に入り、
 息子も高校一年になった。もう彼らの時代だ。
 失われた時を求めて≠ニいっても、とても
 取り返せるものじゃない。途轍もなく長い歳
 月が流れ去ったのだ。
  それでも今年の年末は、二つの時間≠
 取り戻す(あるいは取り戻せそうな予感がす
 る)ことがあった。一つは、中学からの友人
 (というより音楽仲間)のライブに行ったこ
 と。ライブそのものもそうだが、それ以上に
 友人の変わらぬ思い≠ノ触れたこと。
  もう一つは、小川和佑先生の文学ゼミで、
 九州に移住した後輩が十四年ぶりにラドリオ
 が営業している間に帰省できるというので会

 
 ったのだが、それが思わぬ大同窓会になった。
 「ラドリオに集合」の一言で、声をかけた全
 員が間違うことなく集まったのだ。その十名
 こそが、二十二年前に発足したゼミOB会の
 コアメンバーなのだった。しかしこの十数年
 その全員が揃うことはなかった。全員が、そ
 れもあたかも以前と変わらないが如くに一堂
 に会せるとは。その快挙に何かの予感。
  ところがそんな矢先の晦日、つまり昨日な
 のだが、父親がやらかしてくれた。ブレーキ
 とアクセルを踏み間違えて、自宅の壁と車を
 大破させたのだ。怒鳴る気にもならない惨状
 である。車の運転に関しては父もバリバリで
 あったはずだ。老い≠ナある。二歳年上の
 芦原修二氏が電車接触事故を起こすのも、七
 歳上の小川先生が数年まえ膝の腱を切ったり
 するのも無理はないのかもしれない。
  そして短説。一九九五年に復帰して以来、
 十五年間、年に最低でも一作は書いていた。
 これはその十六年目のアリバイである。

〔初出〕平成22年12月31日「短説[tansetsu]ブログ」

神田神保町のカフェバー「ラドリオ」

    休みの日に



  ストーブを出した。急に寒くなってもいつ
 でも使えるように。去年の灯油がまだ少し残
 っていた。試運転すると、あの独特の匂いが
 部屋を満たした。
  あれほど暑い暑いと言っていた平成二十三
 年の夏もいつの間にか過ぎ、秋も深まりつつ
 ある。恐ろしいスピードで月日が流れる。
  徹夜仕事明けの午後。妻は墓参りで仙台へ
 行き、息子は高校の修学旅行で沖縄に行って
 いる。娘は大学へ。授業が終わっても、サー
 クルの活動で帰りは遅くなる。要するにお父
 さん一人の午後なのだった。
  それが十月二十七日のことで、はや二週間、
 立冬も過ぎた。十一月に入って暖かい日もあ
 ったが、今朝はストーブを点けた。勤務のシ
 フトが明日に延び、今日は休みになった。

 
  息子は野球部の「朝練」で早くから出掛け
 た。娘も、つい最近始めたセブンイレブンの
 アルバイトが早朝から三時間あり、帰宅する
 なりすぐに大学へ向かった。
  その娘だが、あさって十二日、二十歳にな
 る。娘が生まれたのは、義父が六十歳で突然
 亡くなった、その二ヵ月後だった。あれから
 二十年。初めて対面した産院の部屋。生まれ
 た頃の写真を見、その頃のこと、そしてそれ
 からのことを思えば、月並みだが「感無量」
 という言葉しか思い浮かばない。
  娘が生まれ、まだ小さい頃に、将来、こう
 もしたいああもしたいと思い描いたこと、そ
 の何パーセント出来ただろうか。娘が高校生
 ぐらいになったら、格好いいオヤジとして美
 術館巡りなどをしたいと思っていたものだ。
  いま二十歳を迎えるにあたり、尤もらしい
 訓戒を垂れる気はないが、何か特別なことを
 してやりたい。そう思うが、妙案が思い浮か
 ばない。いずこも同じ親心があるばかりだ。


〔初出〕平成23年11月10日「短説[tansetsu]ブログ」

娘二十歳の記念撮影

    娘の旅立ち



  旅立つ娘に、いったい何んと言ったらいい
 のか――。昨平成二十三年の十一月で二十歳
 になった。この一月に成人式を迎えた。その
 娘がフランスに留学する。留学といっても、
 娘が通う大学が主催する「海外現地実習プロ
 グラム」による短期の語学研修であるが。
  出発は明日である。一月三十一日から二月
 二十六日までの一ト月に満たない短期留学。
 今では驚くに足らない。三十年前、私の高校
 でもアメリカへホームスティがあったくらい
 だ。旅立ちだなんて言う大袈裟なものではな
 い。ただ、東京生まれの東京育ちの者にとっ
 ては、大学進学などでの上京¢フ験がない
 ので、やはり旅立ちと言えるかもしれないし、
 されど渡欧だ。と、そう大きく構えてしまっ
 ているのは親だけのようだ。

 
  一口にフランスと言っても広いわけで、パ
 リは経由のみで、滞在先はトゥールである。
 本土中部のアンドル=エ=ロワール県の県庁
 所在地ということだ。バルザックの生まれ故
 郷。高松市と姉妹都市のようだが、そこが日
 本における愛媛県的な所なのか岐阜県的な所
 なのかは皆目イメージがつかめない。
  スーツケースに入れたものはどうだ、手荷
 物や貴重品はどうだ、書類は揃っているか、

 連絡先や日程の控えをとり、何度も忘れ物は
 ないか、わざわざエクセルでリストを作り、
 チェックしてと、親父があれこれ指図し、本
 人以上にテンションが上がっている。いや、
 無理やり上げているといった方がいいかもし
 れない。準備期間は充分あったのに、なぜも
 っと早くになどと言いながら、直前になって
 一番あたふたしているのは親父である。
  たぶんそれは、私自身が日々の仕事でテン
 パっていて、娘のことに思ったように当たれ
 ない苛立ちの反映なのであろう。

〔初出〕平成24年1月30日「短説[tansetsu]ブログ」

フランスはパリのビュシー通り10番街のカフェ

    最後≠フ運動会



  子供の運動会に行ってきた。下の子も高校
 三年生になった。つまり、息子にとってはお
 そらくこれが学校生活最後の運動会だろう。
 ということは、私たち夫婦にとって、これが
 子供の最後の運動会ということになる。
  上の娘が幼稚園の年少に入り、最初の、そ
 れこそ感動≠フ運動会があったのは平成七
 年である。西暦でいえば一九九五年で、それ
 から、三学年違いの二人の子供を通算して十
 八年! 運動会も最後になったわけだ。親と
 しては、学芸会や文化祭などと並んで最大の
 イベントであり、楽しみであった。
  まだ大学が残っているから、親の役目が終
 わったわけではないが、来春、息子が高校を
 卒業すれば、実質的な子育て≠ヘ終わりと
 いうことになる。同時に、私は五十歳を迎え

 
 るのだが、生まれてから、幼稚園、小学校、
 中学高校と思い返せば、それは、さすがに長
 い時間であったと言わねばならない。
  今日の運動会、このところ雷雨や雹が降っ
 たり強風だったり、荒れた天候が続いたが、
 見事に晴れた。私が六年通った母校でもある。
 今は男女共学になり、校舎はすっかり様変わ
 りしたが、全体の雰囲気は変わっていない。
 校庭は広くなり、空が高く見えた。
  私が卒業してから三十数年、当然のことな
 がら、毎年このように運動会は続けてこられ
 たのだ。その子供ひとりひとり、それぞれの
 親にとっての、各年の運動会があり、そして
 それは日本中で行われていて、親の親もそう
 だったのであり、そう思うと、親の思い
 とは、何んと大いなるものかと思う。
  私は高校二年の運動会で鎖骨を骨折した。
 三十二年前のこの同じ校庭で。それを見てい
 た母が、今日は孫を見に。若かった母も、十
 七歳だった私も、どう仕様もなく年老いた。

〔初出〕平成24年5月19日「短説[tansetsu]ブログ」

息子の最後≠フ運動会

    平成二十四年の逝く夏に



  五月十九日に短説「最後≠フ運動会」を
 書いてから、ちょうど三ヶ月後の八月十九日
 までは、息子の高校野球一色だった。
  妻と二人、本人以上に騒いでしまった。息
 子の学校(私の母校でもある)が甲子園に行
 ったわけではない。が、神宮には行った!
  そのことについてちゃんと書いておきたい
 と思っていた。でもそれは、私なら、やはり
 短説にすべきだろう。娘のフランス留学のそ
 の後についてもしかり。
  しかし、時の経つのが早い。早すぎる。い
 まだ猛暑が続いているが、真夏とは異なる秋
 の匂いがしてきている。その匂いを嗅ぐだけ
 で、鼻にツーンときてしまう。
  夏の終わり、短説同人のあるサイトが消滅
 してしまった。知人のブログやホームページ

 
 が更新されているのは楽しみであり、励みで
 もあり、一種の安否確認ではないが、同じ時
 間を共有して生きているという、その形に残
 る証明であると感じている。事情は不明だが、
 残念である。もはや短説を書いていなく、ペ
 ージを更新することもなくても、個人作品集
 のアーカイブとして残しておいてほしかった。
  しかし、それにも熱情≠ニいうものが必
 要で、かつて短説の会を取り巻いていた熱情
 を、今懐かしんで、もう一度と思っても、も
 はや気持ちが行かない≠フは、かく言う私
 にしてもそうなのだ。
  でも、私には、声がまだ聞こえる。かすか
 ではあるが、何かを囁く声が。それは古い友
 人からのコールだったり、やっぱり文学って
 いいなという思いだったりするのだが。
  ブログでも、日記でも、雑記でもいい。や
 はり書いておこう。それしかない。
  あっと言う間に流れ去る時に、少しでも楔
 を打たねばいけない。

〔草稿〕平成24年9月4日「短説[tansetsu]ブログ」
〔初出〕平成26年9月8日「短説[tansetsu]ブログ」

息子の高校野球最後の公式戦(神宮球場にて)

    娘の演奏会



  娘が、まわりまわって、どういう因果か、
 卒論にジャン・コクトーをやることになった。
 そして、今度は、そうなれば当然の結果とし
 て、レイモン・ラディゲときた。大学近くの
 古本屋で全集を見つけたが、高くて買えなか
 った。そこで、今月来たる誕生日のプレゼン
 トにどう?となったが、そこは西山家なので
 ある。私の書棚の、それも特別欄に陳列して
 ある秘蔵の一巻本翻訳全集と評伝本を取り出
 してきて、娘に渡した。親は得意がっている
 が、娘にしたら、くやしいらしい。
  昨夜、その娘が所属する大学のサークルの
 演奏会に行ってきた。「管」はないのだが、
 室内管弦楽団の年に一度の定期演奏会。音楽
 大学ではないので、賛助メンバー以外はど素
 人の集団である。だが、小ホールとはいえ、 

 
 ある区の文化センターの立派な施設を借りて
 の演奏、それなりに様になっていて、親の贔
 屓目にしろ、いい演奏会になって良かった。
  娘は中学・高校の六年間、箏曲部に入って
 いた。「箏」であって、「琴」ではない。そ
 れも唐突のように思えたが、同じ弦楽器とは
 いっても、大学では一転して西洋の楽器であ
 るヴィオラに挑戦することになった。
  しかも、なぜか二年生の時から「団長」を
 務めることになった。プログラムにも挨拶文
 を載せている。今回の演奏会が、実質的には
 引退の最後のコンサートになる。
  中学・高校の六年間も、毎年、学内の文化
 祭といろいろな学校が集まる箏曲部連盟の連
 合演奏会を聴きに行った。大学でも学園祭の
 ブース実演とこの定期演奏会が三回目。
  息子の野球(小学校の健全育成ソフトボー
 ルに始まり、少年野球、中学の軟式、高校の
 硬式いわゆる高校野球)も終わり、とうとう
 子供の行事も終わりを告げる時が来たようだ。

〔草稿〕平成24年11月9日11月30日「短説[tansetsu]ブログ」
〔初出〕平成26年9月10日「短説[tansetsu]ブログ」

娘の大学サークル演奏会

    三島由紀夫生誕九十年の日に



  平成二十七年一月十四日。すなわち本日は、
 三島由紀夫生誕九十年の日である。大正十四
 年、西暦でいえば一九二五年の一月十四日生
 まれ。例の自決は昭和四十五年十一月二十五
 日。四十五歳であった。ということは、生ま
 れてから、その死を挟んで、年月はちょうど
 折り返してしまったわけだ。死んだのが四十
 五。そして、あのような死から四十五年!
  十一月二十五日という日を、僕は今でも一
 番大事に思っている。もう一つ、僕が個人的
 に「創作記念日」と名付けている九月二十日
 が、僕の第一の師である小川和佑先生の命日
 になった。それからジョン・レノンの日。
 はじめて憂國忌に行ったのは昭和五十五年
 だった。いわゆる三島事件からちょうど十年
 目。当時は、すでに十年も前の歴史的な出来

 
 事のように思っていたが、今にして思えば、
 わずか十年前のことだったのだ。事件(いや、
 やはり「義挙」と言おう)から四十五年。あ
 の「十年祭」からでも三十五年もの年月が経
 っているのだった。
  昭和三十三年発行の『三島由紀夫選集8』
 で短篇「遠乘會」を読んだ。十五歳の時から
 もう何度読んだことか。大学の卒業論文でも
 扱った。今更新しい発見もないと思っていた
 ら、一昨年の秋にソフトボールの大会で行っ
 た会場が、まさに舞台になっている江戸川の
 市川橋であったことに今気づいた。昭和二十
 五年四月、三島二十五歳も参加したパレスク
 ラブの遠乗会の写真が選集の口絵に載ってい
 る。もちろん風景は激変しているが、同じ場
 所に違いない。僕らのチームは都大会で地区
 代表として悲願の初優勝を成し遂げたのだ。
  しかし、そんなことをしているはずだった
 のか。今日という日、僕がすべきことは?
  最低限、書くことは書いたが……。

〔初出〕平成27年1月14日「短説[tansetsu]ブログ」

小川和佑先生の書斎

    父の死から一年



  父が死んで満一年が経った。
  平成二十八年の十二月二十五日、家族でク
 リスマス会をした。クリスチャンではないが
 自宅でクリスマスらしい食材を用意して会食
 した。もともと大学四年の息子が、翌春から
 就職で地方に赴任することが決まっていたた
 め、父母、私と妻に娘息子、それに私の妹の
 西山家七名揃っての最後のクリスマス会のつ
 もりでいたのだが、その会食からほんの数時
 間後にまったく思いがけず父が急死したため、
 文字通り最後の晩餐になったのだ。
  そして春に、息子だけでなく、娘も家を出
 ることになった。二世帯住宅に七名で暮らし
 ていたのが、急に四名になったのだ。そうし
 て一年が暮れようとしている。
  一周忌の法要は、年の瀬になる前に、私の

 
 仕事の休みに合わせて既に執り行った。命日
 の今日は、母と妹、私と妻の四人で和食レス
 トランのランチで済ませた。
  奇しくも今朝、父の部屋を根城にしていた
 外猫が死んだ。サビちゃんと呼んでいた。も
 う十五年近くいた猫だ。かつてわが家の周辺
 を支配していた真っ黒のボス猫が連れてきた
 雌猫である。ほとんど飼い猫のようにわが家
 から離れなかったが、野良の習性は改まらず
 人に慣れることはなかった。二日前、長年い
 て初めて撫でさせてもらった。もう衰弱して
 いたからだが、明らかに人間に向かって大き
 な声で何度も啼いた。妹が二階の部屋で飼っ
 ていた片目が不自由なキジトラの雄猫も、先
 月十六歳で亡くなった。
  父のパソコンのファイルは、生前から私が
 おおむね管理していて、ゴミ箱に入っている
 ファイルは削除してもいいものでることを確
 認してはいたが、今まで消すことはできなか
 った。しかし今日、ゴミ箱を空にした。

〔初出〕平成29年12月26日「短説[tansetsu]ブログ」

西山家菩提寺龍珠院(墓地からの眺望)

    五十六歳の誕生日の前日に



  年度が改まり、「平成」最後の一ト月にな
 った。今日は四月七日、日曜日。明日で僕は
 満五十六歳になる。ということは、今日でち
 ょうど五十六年間生きてきたことになる。し
 かしもう、年齢へのこだわりもなくなった。
 気負うこともない。今更どうにもならないと
 いう思いが強くなってきたのだ。
  二年前に自宅を独立した娘が前夜から泊ま
 りに来ていた。そして朝から、妻と大騒ぎで
 着付けをし、コスプレのイベントがあるとか
 で地元の古刹・深大寺に出掛けて行った。猫
 の「ひかり」と朝寝坊していたのだが、とて
 も眠っていられなかった。せっかくなので飛
 び起きて、玄関前で記念写真を撮った。少し
 はこだわっているわけだ。
  毎週日曜日のソフトボール、今日は小学校

 
 
 の校庭での練習のみである。春季大会はすで
 に先週終わっている。午前二時すぎに仕事を
 切り上げ、二時間ちょっとの仮眠で六時に集
 合し、八時からの第一試合に臨んだ。今年は
 まだ一度も練習試合に参加できず、ぶっつけ
 本番であった。一回戦はいい感じで勝ったが、
 二回戦は大敗した。さすがに疲れた。娘には、
 まるで学生みたいだねと笑われた。
  今年もソメイヨシノの開花は早かったが、
 何度か寒の戻りもあり、まだ満開で、花見は
 この週末までもった。
  さて、新しい元号は「令和」に決まった。
 憲政史上初となる天皇陛下の譲位に伴う皇位
 継承。新元号は四月一日に今上陛下が署名・
 公布され、皇太子殿下が新天皇に即位される
 五月一日午前0時に施行される。出典は西暦
 六四五年の「大化」以来初めて国書から引用
 された。『万葉集』の巻五、「梅花の歌三十
 二首併せて序」からである。画期的だ。いい
 じゃないか。ついに三代生きるわけですね。

〔初出〕平成31年4月7日「短説[tansetsu]ブログ」

西和泉グラウンド

短説の部屋/扉 西山正義の短説(4)〈拾遺集〉&(5)〈最新作〉

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