コクトーの耳
 
             
向山葉子
 
 
 
 夜の中で時を刻む時計の音に、かすかな音
が混じっている。耳鳴りだということは分か
っている。昼間、雑事に追われている時には
ほとんど気にもとめない程度のものだ。だが
だいぶ長く続くので、医者にも出掛けてみた
のだが何処にも異常はないとの診断である。
 ……じっと目を瞑っていると、まるで自分
が貝になったような気がする。身体の下で砂
がさらさらと流されていく。私は透き通った
波に揉まれてころころとあてもなく転がって
いくのだった。そして眠りへの緩やかな坂を
転がり落ち始めた。がそれは、突然鳴り出し
た電話のベルにたちまち破られてしまった。
『もしもし、“指”ですけど』
 電話の向こうで男が笑いを含んだ声で言っ
た。すぐには何のことだか分からなかった。
『忘れた? 指だよ、指。佐藤だよ』
 そう言われて、私はすっかり忘れていた昔
のことを思い出した。
『うん、今ね、“鼻”と“耳”も一緒。久し
振りに会って飲んでるとこ』
 彼らと会わなくなってから、もう何年たっ
ただろう。あの頃の私は彼らに囲まれて華の
ような日々を送っていたのだ。まるで王女の
ようにちやほやされて。
『でさ、マドンナはどうしてるんだろうって
ことになってね。いやー懐かしいなぁ。謝恩
会以来だもんね』
 そうだ、あの学生最後の日、私は彼らに私
の一部分を分け与えたのだ。薄いピンクのド
レスを着て、微笑みながら。謝恩会のカクテ
ルに酔った私は、ボーイフレンドのひとりひ
とりに花を一輪づつ渡しながら、ある者には
目を、そしてある者には指をあげると約束し
たのだ。他愛のない子供らしい約束。今の今
まで思い出しもしなかった約束を。
『みんな君に夢中だったからね。特に君の白
くて形のいい耳をみんなが欲しがってたっけ。
コクトーの耳ってあだ名してたんだよ。綺麗
な波に洗われる貝殻みたいだったから』
 そんなこともあったような気がする。今で
は誰もそんなことを言う者もなくなり、すっ
かり忘却の彼方である。
『もう教えてくれてもいいだろ。一番大切な
耳をあげたのは誰なのか』
 誰だったっけ……と私は思いを巡らしてみ
た。たぶん、堀口さんだろうと思う。
『え? 堀口? 違うよ。やつは目だったじ
ゃない。がっかりしてたんだぜ、堀口』
 ああ、と私は声を上げてしまった。そうだ
った、堀口さんにはあげなかったのだ。他の
女の子とダンスをしたのが癪に触って、彼に
は一番嫌いな目をあげる、と言い放ったでは
なかったか。一体誰にあげると言ったのだっ
たか、あまりに軽くそのへんにいた人にあげ
てしまったために思い出せない。
『堀口も今じゃ親父だよ。他の連中も結婚し
たり、家を建てたり、しっかり人生歩んでる
よ。村上以外はね。やつは可愛そうだったね。
……え? 知らなかった? 村上の一件。や
つさぁ、卒業してから田舎帰ってさ。家業を
継いだんだ。ほら、あいつの家網元だっただ
ろ。それで慣れないながら漁師稼業始めたっ
てわけだ。でも、にわか仕立てだったからね、
時化にあってさ、船がらぽーんと荒海へ落っ
こっちまってお陀仏だった。頑丈そうなやつ
だったけど、あっけないもんだよ』
 村上……あまり鮮やかな記憶はない。背の
あまり高くない、四角い顔の青年だった。い
つもみんなの後ろでにこにこしているだけの
目立たない人だった。謝恩会の日もそうだっ
た。時々目が合うと照れたようにすぐに視線
を外してしまう。
『君、村上には何をあげたの?』
 そう言われても思い出せない。……あの時、
村上さんは清潔な白い歯を見せて笑っていた。
極上の朗らかな笑顔。ありがとう、と言った
明るい声、僕一生忘れません、と言った弾ん
だ声。彼のあんな表情を見たのは最初で最後
だった。……一体、何をあげたのだったろう
? 耳鳴りがだんだん大きくなってきた。ま
るで時化の海のように。
『あ、思い出した。耳だよ、耳。どうしてあ
いつにやるんだろうって俺、不思議に思った
んだから』
 そう言われても思い出せはしなかった。だ
が、この耳鳴り、これは海のものだ。……た
ぶん私は村上さんに耳をあげたのだ。戯れに
心もなく、思い出せない程軽く。耳鳴りが一
際大きくなったように思った。電話の声も遠
くなっていった。代わりに轟く怒濤の音が一
面を支配した。彼は私の耳を持ったまま海に
沈んだのだ。私の耳は貝の殻。彼と一緒に海
に沈んだ。……私はこのまま、海の響きを聞
き続けなければならないのかもしれない。死
の国にいる彼の、優しい復讐を受けて。
 
 

 
掌篇小説「コクトーの耳」向山葉子
〔初出〕
月刊「武州路」平成元年六月号(通巻一九〇号)
 
Copyright(C)1989-2003 Mukouyama Yoko.
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