金糸銀糸
向山葉子
あの火事の時までは母の顔を覚えていたよ
うな気がするのだが、今となっては母の顔を
思い起こそうとしても炎の記憶がそれを邪魔
してしまう。めらめらとあっけなく燃え尽き
ていく家の思い出とともに、私は母とのこま
やかな記憶をも燃やしてしまったようだった。
火の回りが早く、父は私を負うて逃げるのが
精一杯だった。身のまわりのものすらも持ち
出せないまま、母を偲ぶよすがはすべて失わ
れてしまった。ただひとつ、残像のように、
たおやかな後ろ姿のイメージだけが私に残さ
れた。
私は時折、その唯一の糸をたどって母を思
い起こそうと試みる。しかし、浮かび上がっ
てくる記憶、のようなものは甚だ曖昧で、確
かに見た出来事なのか、それとも何かのきっ
かけで創られたイマジネーションなのかはは
っきりしない。がそれは、私の脳裏で幾度も
幾度も反復されて、今ではあたかも映画の一
場面のように色さえも鮮やかに思い描くこと
ができる。
窓を大きくとった、陽光のよく入る部屋だ。
霞のように淡い光が母の後ろ姿を浮かび上が
らせている。ほんのりとぼかされた紫色の着
物に身を包み、何か物を思う風に母の像は静
まっている。窓から風が入るたびに、袖に描
かれた可憐な花々がかすかに揺れるのだ。し
ゅっという衣擦れの音がさやかに耳を打ち、
その足が少し自堕落に横に崩される。と、今
まで光の加減で認められなかったお太鼓の帯
の二匹の胡蝶の金糸銀糸が凛としてきらめく
のだった。
そして私はいつも、そこから母を振り向か
せようとしては失敗するのだ。どんな女の顔
をはめこんでみてもしっくりこない。あらゆ
る面影を当てはめることに飽くと、私の思考
はようやく現実へと戻ってくるのだった。
「考えごとは終わった?」
いつの間に現れていたのか、宗田夫人の艶
冶な微笑みが目前にあった。
からかうように笑う夫人の顔は、今年四十
五になるというのにいっこうに凋落の気配を
みせない。娘時代のポートレートを画面に蘇
らせて填め込んだようなのだ。子供を持たな
いせいだろうか。
「いまさら今日子の写真が見たいなんていう
から、苦労しちゃったわ。この一枚探すのに
昨日一日かけたのよ」
夫人はバッグから、封筒を取り出しながら
言った。ここには今日子、つまり母の写真が
入っているはずだった。私はいざその封筒を
前にしてしまうと、何だか落ち着かない気分
になり、急に不安になった。ためらう私を夫
人は楽しげに眺めている。
「見ないの?」
夫人のその口調に私は危険な匂いをかいだ。
夫人は明らかに何かを期待している。私は封
筒をそのまま内ポケットに仕舞い込んだ。
「家に帰ってからじっくりと見ますよ」
「まあ、残念。劇的な親子対面が見られると
思ったのに。それじゃ、今日子の話を少しし
ましょうよ。あなた、顔は覚えてないのよね。
他に覚えてることって、本当にあの場面だけ
なの?」
「ええ、何度思い出そうとしても、あれしか
浮かんでこないんです」
「おかしいわねぇ。あなたのこと、あんなに
慈しんで育ててたのに。子供なんて薄情なも
んね」
夫人は白い喉をくっと鳴らして、コーヒー
を飲み干した。伸ばされたきめの細かい喉は
何かの強い決意に支えられているかのように
毅然とした感じがした。
「でも今日子は幸せだわ。美しいイメージと
なってあなたの中に生きているんですもの。
ね、もう一度話してくれない? 今日子のイ
メージ」
私が話す間中、夫人は夢をみるようなうっ
とりした表情で聞き入っていた。まるで自分
への讃辞を聞く、王妃のように。
「あら、もうこんな時間。そろそろかえらな
くちゃ。宗田が帰ってくるわ」
夫人は左手首の時計にちらと目をやり、い
そいそと立ち上がった。
「じゃ、御対面の感想、楽しみにしてるわ」
夫人はレシートをひらりと取り上げると、レ
ジへ去りながら手だけをこちらに振ってみせ
た。私は当然のようにその後ろ姿を見つめた。
そして私の目は一瞬、凍りついたように夫人
のお太鼓の帯に釘づけになった。あの金糸銀
糸の刺繍の文様……。
私はぼうぜんと冬の歩道を歩いていた。内
ポケットの中で母の写真がかすれたかさかさ
という悲鳴をあげた。私は立ち止まり、その
もだえる薄い一枚に静かに火をつけた。火は
一瞬青い炎を発し、瞬く間に燃えつきた。
掌篇小説「金糸銀糸」向山葉子
〔初出〕
月刊「武州路」昭和六三年七月号(通巻一七九号)
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向山葉子の小説・目次
「コクトーの耳」 ・ 「サーカス」