サーカス
 
             
向山葉子
 
 
 
『サーカス、来る!』と大見出しのついた折
り込み広告の文字が目に飛び込んできた。私
はとっさにそのサーカス団の名前に目を走ら
せた。『Bサーカス』という外国の有名なサ
ーカス団の名前が記されてあった。もちろん、
私が期待した名前ではない。サーカス、とい
う言葉を私はかつてある一時、熱病に取り憑
かれたように(実際熱があったのだが)繰り
返し思っていた時期がある。そのサーカス団
の名は、茂草サーカスといった。初めにその
名を私に伝えたのは、仲良しの笹美ちゃんだ
った。私達は同じ小五で、家も近く、よきラ
イバルでもあった。
「サーカスが来るんだって。三丁目の児童公
園。茂草サーカスっていうのよ」
 色とりどりに印刷されたビラを見せて、笹
美ちゃんはそう言った。真ん中に玉に乗った
ピエロが描かれており、上にはブランコに足
を絡ませてさかさになった少女が笑っていた。
下には古風な文字で、本邦初公開の至上の芸
の数々、茂草サーカス、と書かれてあった。
だがその三日後、公演初日に私は四十度近い
熱を出して寝込んでしまった。しかたなく笹
美ちゃんは一人で行くことになった。
 笹美ちゃんは、紅潮した頬で帰ってきた。
すごい、すごい、を連発しながら。
「鏡を通り抜けたりするの。女の子がね、初
めは手を鏡の中に入れたり出したりするの。
それから、体ごと入っちゃうんだから……」
 ……大きなテントの入り口で赤と銀の縞模
様の派手な衣装をつけたピエロが盛んに手招
きをしている。左手に持った糸の先には、赤
や黄色や青や水玉や紫や様々な風船が揺れて
いる。ピエロは子供達におどけた仕種でそれ
を渡している。風が吹く。一つの風船が群れ
を離れてふわりと浮き上がる。あ、と私は声
を上げる。私が一番欲しかった銀地にピンク
の水玉の風船だったのだ。私は遠ざかってい
く風船をいつまでも見つめている。
「嬢ちゃん、あれがよかったの? ああ残念
だったね。でもご喝采。あれなら中にいっぱ
いあるよ」
 ピエロは私の頭を撫でなから優しく言う。
「一緒に入ってみる?」
 私は頷く。ピエロは私の手を取って、皆が
入っていく入り口とは違う小さな入り口に誘
っていく。中はとても暗い。私はちょっと躊
躇う。がピエロが背を軽く押すと私は闇の中
に吸い込まれてしまった。滑り台を滑るよう
にどんどん落ちていく。突然明るくなる。私
の欲しかった風船が一面にふわふわと舞って
いるその上に私は落ちてきたのだった。
「やあ、待っていたよ。早速練習だ」
 肩幅の立派な背の高いお兄さんが、私の手
を取る。斜めに張った綱がずっとテントの頂
上(それはずっと高くて見えない程だ)まで
続いている。これを登るのだという。私は出
来ない、と首を振るのだが、お兄さんはもう
見本を示そうと綱の上である。お兄さんの足
は魔法の足だ。長い足指を器用に綱に絡めて
登っていく。お兄さんは手招きをする。私は
首を振る。手招きする。手招きする。優しい
笑顔で。私は靴と靴下を脱いで、仕方なく綱
の前に立つ。
「ホラ、そんな長い足の指を持ってるんだか
ら大丈夫。乗ってごらん。君はすぐスターだ」
 私はおそるおそる綱に足をかける。不思議
なことだ。私の足はすぐに綱に馴染んでしま
った。まるで綱の方で、私を登らせようとし
てくれているようだ。私は嬉しくなった。今
までこんなに上手く出来たものがあったかし
ら? すいすいと私は登っていく。お兄さん
が待っていて、私の手を柔らかく握ってくれ
る。あったかい手。私の不安は微塵になる。
胸を張って堂々と、私は登っていく。突然、
スポットライト! きらきら光を蒔くミラー
ボール。私の服をお兄さんがつっと引っ張る
と服はばらけて、華やかな縫い取りのある紗
の衣装に早変わりする。鳴り響くドラムの音。
『天才少女による縦綱渡りの妙技! 本邦初
公開! 上手くいきましたらご喝采!』
 私は微笑む。息を詰めて見つめる観客の顔、
顔、顔。やがて頂上まで辿りつく。そこで私
とお兄さんは煙のように消えるのだ……。う
ねるようなどよめき、鳴り止まない拍手――
 ――私は四日も夢現だった。熱が引いてか
ら、笹美ちゃんが引っ越していってしまった
ことを聞いた。枕元には銀地にピンクの水玉
の風船が天井につっかえながら糸を垂らして
いた。笹美ちゃんのプレゼントだった。
 児童公園には、もうサーカスの跡形もなか
った。紙吹雪に使ったと思われる紙屑が僅か
に風に吹き上げられているばかりで。老人が
一人、近付いてきて言った。
「嬢ちゃん。もうサーカスは行っちまったよ」
 
 

 
掌篇小説「サーカス」向山葉子
〔初出〕
月刊「武州路」平成二年一月号(通巻一九七号)
 
Copyright(C)1990-2003 Mukouyama Yoko.
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