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中井英夫の「無用者のうた」論から
   「暗黒の井戸」論議

西山正義&芦原修二



いくつかの歌人伝をめぐって」の最後に、「本当は今回、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた『現代短歌論』の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る」と書いた。原典を図書館に返却しなければならないので、とりあえず抜き書きしておく。
 2001年11月発行の国文社版「現代歌人文庫(第2期)40」の『中井英夫短歌論集』所収、「無用者のうた−戦後新人白書」(初出は「短歌」1961年12月号)より。

 いまでも概ねはそうだが、歌人は一様に人格者で、健康すぎるほど晴朗な社会人にあふれている。『中井英夫短歌論集』カバー久しい間、平明な生活詠が第一条件とされてきた歌壇には、むしろそれも当然のことで、律儀な身辺報告に終始している以上、異端の意識は入りこむ隙もない。だが、文学者としてはこれくらい滑稽な話はなく、裡に深い暗黒の井戸も持たず、何を創ろうというのだろう。川端康成が今度の文化勲章を受けるに際して、文学者というのは無頼漢ですからね、といった意味での、精神の無頼性をつゆ(原文傍点あり)持つことなく、小心で身仕舞のいい人格者が、何を人に語ろうというのか。いまなお、もろもろの結社誌では、人格陶冶のための作歌とか、誠実な生活だけがすぐれた短歌を生むとかいうスローガンを恬然と掲げているけれども、思い上がりも甚だしいといわねばならぬ。(中略)塚本でも葛原でも、その後の中城ふみ子でも、編集者としてその登場に希ったのは、前衛派の擡頭だの反写実だのということではない。文学はもう少しダメな魂の産物だという、最初からの約束事を確かにしておきたいだけといってもよい。

 どうだろう。今から四十四年前に書かれた論考である。が、現在でも概ねそうだといわねばらぬ。私は現代歌壇に明るいわけではない。だから、ここにいう歌人/短歌を、作家/小説・エッセイ、詩人/詩、俳人/俳句、いや、物書き全般と読み替えればいい。すべてがそうだとは言わぬまでも、見事に正鵠を射っている。
 短説はどうか。私の興味は実はそこにある。少なくとも、主宰者の芦原修二氏をはじめ一部の書き手は、川端康成が言ったような意味での無頼漢であり、その作品の裡には深い暗黒の井戸があり、ぽっかりと深淵が口を開けている。しかし、短説の会全体で言えば、やはり中井英夫が指摘したようなことが言えるのだ。
 短説は、短歌や詩ほどではないが、小説に較べてより広い書き手を得た。芦原氏もそれを推進してきた。文芸評論家の小川和佑氏が批判するところの「参加の文学」をあえて許容してきた。しかし、物書きとしての根本的な姿勢という点で、芦原氏にもジレンマがあるのだ。
 つまり、両者の言う「参加の文学」は、微妙に意味合いが異なり、芦原氏も小川氏が批判するような「参加の文学」を認めているわけではなく、実は小川氏も芦原氏も中井英夫も、まったく同じ地平に立脚していると言わざるを得ないのである。
 そもそもここで「物書き」などという言葉を持ち出す時点で、おそらく意識の違いが出てくるのだろうが、ものを書いて発表するということは、それがたとえ小集団の中であっても、プロだろうがアマチュアだろうが、意識が違かろうがお遊びや道楽のつもりだろうが、事情はまったく一緒で、すべてに適用される厳しい掟がある。一言で言ってしまえば、それはいずれにしろ、地獄への片道切符、である(はずなのだが)。


 上記の論考を、短説のML座会にも配信していました。月刊『短説』誌上でも活字になりましたが、この論をめぐっての芦原修二さんと私のやりとりを再現しておきます。
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後1時15分
Subject: Re: [短説][00919] 中井英夫の「無用者のうた」論から
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 ―「無用者のうた」論から― 拝見しました

 西山さんから表記論文をお配りいただきありがとうございました。
 たいへんなつかしい気分で拝読しました。それというのは、当時「暗黒の井戸」といった認識が評判になり、私もそれを当時読んでいたからでしょう。どこで、いつ読んだかなどの細部は忘れておりましたが……西山さんのご指摘によって、44年前のことだったと知り、驚き、かつなつかしい気分になった次第です。
 もう間もなく半世紀前のことになるのですね。しかし、この論旨は、いまも真理であり、私自身にとっては、その根底にありつづけてきた、書くということの岩盤的認識でありました。
 ただ、短説を20年もつづけてきますと、会員に「よき家庭人」「よき市民」といった方々が多くなってきて、じつはこれが難問題になっています。「暗黒の井戸」これが、文章を書く事の根本理念だ、ということが、常識として理解されていないからです。そこでは、常套句花ざかりの、そしてちょっと気のきいた形容詞にあふれた、つまりどこに出しても、あたりさわりのない身辺雑事の「お上手なご報告文」ばかりになってきます。
 私が「形容詞」をできるだけ削るようにすすめ、また、常套句はまず第一に削ってしまうようすすめているのも、じつは、そうしたことによって、一見「よき家庭人」「よき社会人」も実は皆、その存在の奥に「暗黒の井戸」を持っていることを気づいてほしい、という思いがあるからです。その存在を気づいたところから、ほんとうに書く事、考えることがはじまるのだと信じているからです。人は、みんな、ことと場合によっては、刃物を持って学校に押し掛けないでもない存在です。そこに気づいていないと、読者にとって有意義な作品など生まれてくるはずがないのです。
 逆に、いくら探しても、自分の内側に、そのような「暗黒の井戸」がまったくないという方が、もしおられたとしたら、そうであること自体を追及さるべきでしょう。すると、そのこと自体が、その人にとっての「暗黒の井戸」であることが理解されてくでしょう。
 釈尊は自分の息子に「悪魔(ラゴラ)」という名をつけ、捨てています。
 自分は、「暗黒の井戸」を持たないと言えることは、自分が「釈尊をも凌ぐ聖人」だと自負することなのです。だとしたら、そのこと自体が、前記したとおりに、その人にとっての「暗黒の井戸」でなくて何でしょう。
 西山さん、いい時期にいい論文をいただきました。感謝します。 

【芦原修二】

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From: 西山 正義
Date: 2005年2月21日(月) 午後5時31分
Subject: Re: [短説][00936] 「無用者のうた」論から
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 芦原様 お忙しい中ご返信ありがとうございます。

 一言申し添えておくと、私も芦原さんも、「よき家庭人」「よき市民」を批判しているわけではありません。昔は文学者は無頼漢どころか時に犯罪者でもあったのですが、現在ではそんなことはありません。職業作家といえども、実生活ではごく普通の市民であり、よき家庭人だったりします。
 むしろ、そうしたごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要です。

 先頃の寝屋川市の小学校教職員殺傷事件にしても、池田小の事件にしても、酒鬼薔薇事件にしても、小学生の子供を持つ親としては、全く許しがたい事件ですが、その犯罪が自分とは無関係だと考えるのは不遜というものです。佐世保の小学生が同級生を殺してしまった事件も、大人の目からは驚愕に値するように見えますが、本当にそうか。多くのニュースや各種報道に不満を覚えるのは、アナウンサーもコメンテーターも聖人面していることです。
 たしかに、実際に犯罪を犯すか犯さないかの違いは、大きな違いかもしれない。しかし、単に小心だから犯罪を犯さずに済んでいる場合もある。可能性として心の裡に秘めているのと、ある意味では五十歩百歩といえる。だから、キリスト教では心に思っただけで罪とされるわけで、この認識は正しい。
 キリスト教ではそれを懺悔という形で救済するわけだが、文学もこれと同じ機能を担っているといえる面がある。芦原さんも「少年達はなぜ小説を書くのか」で同じようなことをおっしゃっておられますが、もしかしたら小説は犯罪を犯さないで済ませるための装置かもしれない。
 実際、自分の親やきょうだい、子供、友人、恋人、妻や夫を、心の中で一度でも殺したことがない人などいるでしょうか。
 だからこそ、その取り扱いには厳格な注意が必要だということだ。

 佐世保の小学生がホームページ内で実際にどんなやりとりをしていたのかは詳らかではありませんが、「言葉」によって人を殺人に駆り立てることもあるということではないか。
 インターネットで一つ危惧されるのは、誰もが簡単に情報・意見を発信できるようになったのはいいとしても、ものを書くに当たって、それ相当の覚悟と、言葉が持つ魔的な作用を認識していないと、一部の掲示板ですでにそうなっているように、全くの無法地帯になってしまうということだ。たとえ匿名でも、その責任の所在は作者自身にあるのは変わらない。ただ、匿名ネットでは、その所在の追求が難しいというだけに過ぎない。
 最初の論点からちょっとズレますが、車を運転するには免許が必要だ。文章を書いて発表するのに免許は要らない。しかし本当はそうではないのだ。なぜなら言葉は剣と同じだから。ところが、学校でもどこでも誰も教えてくれない。無免許運転はともかく、それでも事故が起きる。小学生でも簡単にホームページが開ける時代になった。ことばは悪いですが「キチガイに刃物」状態にもなりかねないのだ。

 しかし、こう考えてくると、当たり障りのないもの以外、何も発言できないことになってしまう。そこでわれわれ短説は、もう一歩進めなければならない。
 言葉によって人を傷つ、自分をも傷つけるということを十分認識した上で、なおかつ言葉の剣ではらわたを抉り出さなければいけないのだ。
 これを自覚しているのと、無意識・無自覚・単に無知でやるのでは大違いである。まともな職業作家はそれを承知しているから、時に抑制することもあるが、素人が無自覚でやると前述の通り危険なことになる。しかし、危険を承知で、それでも「書かざるを得なくなる」のが文学である。いや、私は文学をやっているつもりはないという議論もあるでしょうから、文章と言い直してもいい。

 現在は、小説よりもゲームの方が正直かもしれない。今回の小学校事件もゲームの影響が云々されているけれども、ゲームのシュミレーションやバーチャル体験によって、逆に犯罪に走らないでいるケースもあるのではないか。犯罪に到っていないのだから、検証の仕様がないが。ビートルズのある歌を聞いていたら人を殺したくなって殺したという事件が、かつて実際に起こったが、実は逆のケース、つまり犯罪が起こらなかったということの方が多いのではないか。

【西山正義】

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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後9時14分
Subject: Re: [短説][00937] 「無用者のうた」論から
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 ふたたび「暗黒の井戸」について

 西山さん、今度の論考で、いっそう問題点を明らかにされたことをうれしく思います。おっしゃる通りに《ごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要》で、そのとおりなんです。
 私は、西山さんの今回の論考を「月刊短説」に転載させてもらいたいと思います。ネットを読んでいない人にも、この問題を十分に考えてもらいたいと思います。この論義を経過した後になら、きっと文章を書く事に覚悟を持った人が出てくるだろうと思います。
 よき家庭人、よき社会人に、なぜ《暗黒の井戸》を覗き込んで、短説を書く事をすすめているのか、その本当の意味もわかってくるように思います。
(後略)

【芦原修二】
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(以上「短説ML座会」より)


〔初出〕平成17年2月17日/3月7日短説ブログ



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