短説と小説「西向の山」 ホーム随筆の庭久坂葉子について三島由紀夫のスポーツ論/「伊東先生」の言葉/小川和佑『三島由紀夫少年詩』解説


「伊東先生」の言葉

−庄野潤三から見た伊東静雄像−

西山正義



 結局のところ、詩は、ただその詩のみを虚心に読めばいい。
 伊東静雄という名を聞いただけで、ある一部の人々は、特定の極度に限られたイメージを抱くのかもしれないが、それも今は昔の話のような気がする。今かりに、詩人の名も既成の文学的評価も知らずに読んだとしても、その詩は読む者の心の奥深くに必ずや訴えかけてくるだろう。詩人その人とも時代や思潮とも関係なく、今もその詩句は生きているから。
 魂の底を揺さぶる詩人というのがいる。心の琴線を激しく刺戟する詩人もいる。しかし、伊東静雄ほど何か平常心ではいられなくする詩人はいない。新潮文庫の『伊東静雄詩集』をいつも手の届くところに置いてあっても、おいそれと徒然に紐解けるような代物ではない。読む前と読んだ後では何かが決定的に違ってしまうからだ。
 しかしそれも先入観であろう。そうした所謂「苛烈」な詩ばかりとは限らない。今読み返してみると、私はむしろ晩年の詩にひどく魅かれた。それは私がその年齢に近づいたからということだけではないだろう。

     *

 それはそれとして、われわれはやはり詩人その人の実像を覗いてみたくなるものである。今ここに、庄野潤三の『前途』という小説がある。その弟子が当時の日記を基に書いたものとはいえ、あくまでも小説であるから、そこから詩人像に迫ろうというのは邪道かもしれない。当然庄野潤三のフィルターも考慮しなければならない。ただ、私は詩人でも研究家でもないし、もはや学生ではないにしろ未だに当時の庄野潤三の立場にいるような気がしているので、「伊東先生」に対して非常な親近感と畏敬の念を覚えるのだ。年齢的にはむしろ当時の「伊東先生」とほとんど変わらないにもかかわらず。誠に手前勝手な読みになるだろうが、たとえ弟子の目を通してでも、文学者として教育者として、そして何よりも一介の生活者としての伊東静雄の言葉は、現在でもわれわれに多くの示唆を与えてくれるだろうと思われる。
庄野潤三『前途』 庄野潤三の長篇『前途』は、昭和四十三年八月号の「群像」に発表された。伊東静雄没後十四年が経過している。小説はさらに遡ること、昭和十七年十一月二十三日から十八年九月五日までの作家自身の学生時代の日記に基づいて書かれたもので、小説の方も日記体になっている。
 昭和十七年四月、庄野潤三は九州帝国大学法文学部東洋史学科に入学する。そこで、二年先輩の作中では「小高民夫」になっている島尾敏雄らと出会う。軸になっているのは、この島尾ら九大生や「木谷数馬」こと林富士馬、そして大阪・住吉中学での恩師「伊東先生」との交流である。もちろん主人公「漆山正三」=作者自身の成長記録でもあるので、おのずから旧学制時代(というより戦時下)における大学生の所謂ビルドゥイングス・ロマンともなっている。
伊東静雄『春のいそぎ』 小説は、伊東静雄の第三詩集『春のいそぎ』が上梓され(正確には、その出版広告が出て)、島尾敏雄が自費出版の小さな処女創作集を残して海軍予備学生として出征する(これも正確には、出征のため一旦郷里に帰るのを)見送るところで終わる。この最後の場面は、感動的という言葉では言い表せないものがある。それから約二年後、島尾敏雄は例の魚雷挺での出撃を待つことになるのだった。
 庄野の朝日放送での後輩である阪田寛夫が「庄野潤三ノート(17)」で、「当時の日記に基づく小説『前途』はおのずからこの時代の伊東静雄の肖像、ひいては昭和十八年に出た第三詩集『春のいそぎ』の解題という側面を持つことになる」と述べているいるように、あくまでも小説とはいえ、伊東静雄に関する重要な証言を提供している。
 作品に則ってそのすべてをつぶさに見てゆくことは今ここではできないが、たとえば「十一月二十六日」のくだりで、「水無瀬紀行」と題して「伊東先生と水無瀬神宮へ行った日のことを忘れぬために書きとどめておく」とあり、この小旅行の模様が事細かに描かれている。昭和十七年九月二十四日のことである。
 橋本の遊廓を瞥見し、「こんなところに馴染みの、いい女があって、時々来るのだったら、いいものでしょうねと二人で話し合った」などというところや「この船頭の仕事はあんまり単調すぎて困りますねと渡し船を下りて歩き出した時、先生が云った」、また燈心亭では「少女の持って来たお菓子とお薄を頂いた」などは、翌日伊東静雄が池田勉に宛てたはがきの「橋本の遊女は、あそこが遊廓だけの町なので人に気がねなき態度でゆつたりしてゐました。(中略)淀の渡しはこのごろ六銭、水無瀬神宮で宝物拝観したら、うす茶とお菓子出ていゝ気持」と照応している。
 それから境内で弁当を食べ、ウイスキーを水筒の蓋で飲む。「ああ、よく食べるなあ。こんなに食べて、ちっとも肥えないのは、どうしてだろう。食べたものがどこへ行くのだろう。そう云いながら、きれいに先生は食べてしまわれた。そして、えらい酔うて来ましたと云って、床机の上に寝ころぶと、しばらくして心地よさそうないびきを立て始めた」は、静雄自身によると「二時間もぐうぐうねてしまひました」と。
 この小旅行の体験がほどなくして「淀の河邊」に結実するわけだが、庄野潤三には「へんてこな恋愛詩にばけてしまいました」と書き(この書簡は消失しているらしいので、庄野の記憶あるいはノートによるものだが)、ほほ同じことを、蓮田善明に「いつの間にかわが身辺にさへ、戦場に行く友、故国にかへる友の、去来激しい近来の世想の思を歌ふつもりでやり出したのですが、中途からおきまりの恋歌にばけてしまひました」(昭和17年11月18日付書簡)と書いている。ここで注意しておきたいのは、現実に体験したことを、体験そのままにではなく、あくまでも仮構の中でその情緒をうたっていることだ。
 やはり庄野潤三が出した手紙がモチーフになっている「久住の歌」では、もはや体験したことではない全くのフィクションによって詩が組み立てられている。しかもそれは、素材を提供した庄野自身の体験ですらない。詩人の自由な空想の産物である。庄野に言わせれば「だいぶロマンチックな趣向」になっているという具合だ。こんな一、二の例を出して云々する気はないが、たとえば「わがひとに與ふる哀歌」にしても、短絡的に私小説風に読むのは危険を孕んでいるとはいえまいか。
 その詩の創作過程の一端は、詩人の日記や書簡からも垣間見ることはできるが、評論の形ではなく、生きた人間がそこにいるかのように覗けるのは小説ならではのおもしろさだ。
 全編を通じて見られるこの頃の伊東静雄の生活ぶりは、詩人として中学校教師として、また子供のいる家庭人として、しごく平穏で安定しているように見える。それ以前の『哀歌』や『詩集夏花』の頃に較べると歴然としている。それは年譜と照らし合わせてもうかがえる。かなり呑気に暮らしている一面すらある。
 もちろん若い教え子の前では決して見せない姿があり、神経衰弱気味になったり、風邪で寝込むこともあった。この前後二、三年の日記には、教務における心労、転任希望が受け入れられないことへの不満、子供の養育をめぐる心理的圧迫、家庭生活への違和感(ただしこれは家庭が不和だというのではなく、家族円満のうちにもあらわれる漠然とした一種の疎外感であったり逃避願望であるのだが)を時には綴っていることもある。当然詩人としての煩悶もある。しかしこのぐらいの心の振幅は誰にでもあるもので、なにも詩人に限ったことではあるまい。全体としては、四十六年三ヶ月の伊東静雄の生涯のうちで最も安定していた時期といえる。
 静雄は住吉中学のあまりいい意味ではない名物教師であった。その授業は厳格だったという。しかし庄野潤三は教え子といっても、すでに大学生になった卒業生である。文学志望者ということもあるが、逆に若い庄野に元気づけられている面もある。そこには酒も介在し、その交流は静雄の側から見ても実にのびのびとしている。
 それで春のある一夕もこんな文学談義をする。それは年少者に教え諭すといった態度ではなく、文学の先輩ではあるが私も一緒に考えていきましょうというような姿勢である。

「これからの新しい文学は、自分の心理や何やらをほじくったりするものでなく、また身辺小説でもなく、ひとつの大きな歴史に人が出交すそのさまを、くどくどしたことは書かずにそのまま述べてゆく(源平盛衰記、平家物語などのように)、そんなのがいい」
「理屈や心理のかげ、自己探求などちっともない、壮大な筆致が必要だということ」

 国文学の読み方については、
「和文脈の中心となるものは、先ず源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草、倭漢朗詠集の五つ、日本の美感はこれに尽されている。このうち源氏物語が大本であるが、全部読むのは面倒ゆえ、好きなところを引っぱり出して読めばいい。特に大切なのは枕草子と徒然草で、これは是非とも読む必要がある」
 それから江戸末期の国文学者の名前も縷々挙げられ、
「自分が書きたいと思うことがあると、昔の人はそれをどう書いてあるか、すぐに見てみる。こうなると、文学の本道に入って来たと云ってよい。これが文学に史感――歴史のみかたの史観ではなくて、歴史の感覚と書く方の史感ですが――の生れる道なり。史感のない文学は駄目」
 そしてとどめは、
「とにかく、あなたはずっと文学を続けて行きなさい」
 さらにこんなことも。
「野心を持つべきこと、野心を持って、途中で止めずに続ければ、必ず十冊の創作集を出せるくらいになれる。第一創作集を出せば、必ず誰か一人は賞めてくれる。第一創作集を出すだけの気持の人には、どこかいいところがあるからということ」
 こんな話の合間に、今度の詩集の題は『春のいそぎ』に決めたと、その由来などが語られる。
 また別の日には、
「この頃は、女の人を美しく思わなくなったから、駄目だ」などとも。
 そしてこんなことも。
「文は人なりという風な文学が本当にいいのだと思います。一丁、傑作書いてやろうかというようなのは駄目なのです」
「いつまでも、文学者として生きなさい。文壇にいなくて、離れた位置にあって」

 引用の羅列になってしまったが、正直に言って私は、これらを批評したり分析したりせず、自分が「伊東先生」から直接聞いたこととしてそのまま受け取りたいのだ。
 ところで、静雄はこの頃から小説を書きたいというようなことを言っている。日夜詳細な日記をつけることについても、「世相の変遷を記しておくのが目的であります。これを草稿にして小説にしたいものだといふ野心もあるのです」(田中光子宛書簡・昭和19年5月1日付)と。しかし一方では自分は全く散文には向いていないとも言っているし、どこまで本気であったかは分からない。それらしい草稿も残していない。
 たとえば立原道造などは、後年小説家に転身していたかもしれない可能性を十分秘めているが、伊東静雄の場合は健康が許したとしても甚だ疑問である。よく指摘されることであるが、これはむしろ静雄の現実感覚への指向とみるべきであろう。リアリストというよりも、ごく常識的な日常生活に密着した平衡感覚ともいえる。
 ただそうした片鱗は、戦後の詩「訪問者」「都会の慰め」「無題」などに見ることができる。そこで捉えられているのは、現実に存在する世界への確かな手触りといったものであろう。
 それはたとえばこんな言葉からも察せられる。これは静雄の文学観というよりも、なにか静かに、しかしやはり燃えているその生のありかのように思える。
 小高民夫こと島尾敏雄が海軍予備学生の志願表を学校に提出した昭和十八年七月六日、島尾が漆山正三こと庄野潤三にこんな話をする。

……神戸からの帰りの汽車で、向いに生れて二月ほどの赤ちゃんを抱いた若い奥さんが坐っていて、こういう風に赤ちゃんを抱いているのだけど、疲れていて、うとうとしかけては子供を落っことしそうになる。
 それで二度、その子を抱いて上げた。その人が僕から子供を受取る時に、袖のところを寄り添えるように持って来て、僕の手とその人の手が触れた。赤ちゃんはきれいなあ。ほんとにきれいなあ。こうして抱いていたら、切なかったよ。

 それから約一ヶ月後の八月十八日、「僕」は「伊東先生」と喫茶店でコーヒーを飲みながら、

……小高が海軍予備学生を受ける許可をお父さんのところで得た帰り、夜行列車で赤ん坊を抱いた若い女の人に会った話を僕がすると、先生は、「小説というのは、いまの話のようなものですね。空想の所産でもなく、また理念をあらわしたものでもなく、手のひらで自分からふれさすった人生の断片をずうっと書き綴って行くものなのですね」
 と云われた。


〔初出〕詩マガジン『PO』110号/特集「伊東静雄」
平成15年8月20日竹林館発行
(平成15年4月稿/副題は後に付加)

詩マガジン「PO」110号表紙


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