短説と小説「西向の山」 ホーム随筆の庭>久坂葉子について/三島由紀夫のスポーツ論「伊東先生」の言葉小川和佑『三島由紀夫少年詩』解説


久坂葉子について

西山正義


*最初にお断りしておきますが、このエッセイ(評論にあらず)は、久坂葉子を誹謗するものではありません。
 彼女は私の敬愛する作家(というより、マイナー・ポエット)の一人です。敬愛しているからこそ、一方で、女としての彼女に歯がゆさを感じてしまうのでした。
 しかし、彼女はそのようにしか生きられなかった。そして、青春を一気に駆け抜けた。
(原文に改行を多めに付加)


 久坂葉子は馬鹿な女である。
 この度、久し振りに彼女の「最後の小説」(富士正晴氏の指摘*通り、これは遺書ではなく遺稿とみるべきであろう)『幾度目かの最期』*を読んで、そう思った。
 読んでいて、非常に嫌な気持ちになった。腹が立ってきた。それは彼女が自殺したことへの腹立ちではなく、こういう所謂、女の情念というやつに腹が立ってきたのだ。
 と同時に、吐き気をもよおしてきた。尾籠な譬えで申し訳ないが、使用済の生理用品を鼻先に突きつけられたような感じなのだ。それなら読むなと言われそうだが、最後まで読んでしまった。
 馬鹿な人間、というのではなく、そう、まさに馬鹿な女なのである。
 そのことは彼女も自覚している。この遺稿が書かれる一ヶ月前、一度は葬ることを取り消したので、本来はお蔵入りになる筈であった『久坂葉子の誕生と死亡』*という小文の末尾にこう書いている。

 ……私は久坂葉子の死亡通知をこしらえ、その次に葬式をするのだ。弔文をよもう。
 お前は、ほんとに馬鹿な奴だ、と。

 より正確を期すなら、馬鹿な、奴ではなく、女と訂正すべきであろう。
 悲劇や不幸、勿論この場合、戦争だとか自然の災害だとか不慮の事故だとか、最近では通り魔的な無差別殺人だとかそういうものではない悲劇や不幸に、自ら向かってしまう性質というのがあるらしい。彼女の場合もまさにそれで、それはある種の体質としかいいようがない。
 彼女の自殺の原因の一つに、恋愛の破綻がある。二十一歳という年齢を考えれば、それも十分あり得るであろう。しかし、自ら破綻を招いているとしか思えないのだ。
 小川和佑氏は『埋没した青春』(「青春の記録」3・昭和51年4月・現代教養文庫)の中で、
「彼女にとって最も深くなによりも純粋であったろう愛は、相手の男にとってはこの美貌の小妖精に対する肉体的な興味以上のなにものでもなかったかに思われる」
 と好意的に解釈しているが、私は必ずしもそうは思わない。この、純粋というのが曲者なのだ。
 純粋――近頃ではピュアなどと安直に言われるが、このいかがわしさに皆気づかないのだろうか。純愛などというものは最もいかがわしい。最近の例でも『失楽園』をみれば判る。
 本当は醜悪なだけなのだ。現代では最早、そういうところにしか純愛は成り立たないということを作者、渡辺淳一は知っている。その純愛も、成就されてしまえば、一組の新しい夫婦が誕生するだけで、再び日常生活が繰り返されるだけだから、永くは続かないので、あの結末は、純愛を全うするというよりは、純愛に絶望してのことなのだ。それをちゃんと踏まえての流行かどうか。
 余談だが、映画化され、それもロング・ランを記録していて、さらにテレビでも放映され話題を呼んでいるが、どうせやるなら本当のリアリズムでやるべきである。それはきっと目を覆いたくなるような醜悪な光景になるだろう。もっとも、いかがわしいからこそ持て囃されるのだろうし、大衆もそれは判っているのだと思う。
 因みに私自身は、日経新聞に連載中、日経が後ろから読まれるようになったと言われる通り、ご多聞に漏れず毎朝けっこう愉しみにしていたので何とも云えないが……。
 とにかく純粋というやつは、往々にして悲劇(時には喜劇)に向かわせるし、人を破滅に導く。大体において、言葉の意味通り人は純粋でなんかいられるのだろうか。少しぐらい不純なところがあったり、俗っぽいところがなければ人はとても生きられるものではない。そういう意味では、やはり久坂葉子は純粋であったのかも知れないが、純粋を突き詰めていけば、自殺するか、心中するか、テロリストになるかしかないのだ。
 彼女が最期に本当に死んだのは、昭和二十七年の十二月三十一日、つまり一九五二年の大晦日であるが、その年の三月にも、妻帯者の男性を愛したことから自殺未遂をしている。
 しかし、その後も懲りることなく三人の男、すでに過去の人である筈の〈緑の島〉、最愛の恋人〈鉄路のほとり〉、偽装の婚約者〈青白き大佐〉の間で絶えず揺れ動いている。しかもこの三人は、それぞれに友人であったり、仕事関係の仲間だったりするのだ。
 彼女が最後に愛したのは〈鉄路のほとり〉であるが、にも拘らず、なんらの恋愛感情もなしに〈青白き大佐〉と婚約する。
 これが、親が勝手に決めた婚約者であるならまだ同情の余地もあるが、自ら進んでそれも冗談みたいな結婚の契約書を交わしたりする。だから臆面もなく、「真剣に結婚を考えてはいなかったのです」などと云う。好きでもないのに、その実この男にも寄り掛かって甘えている。
 死の四日前にも、〈鉄路のほとり〉に逢いに神戸から大阪へ行く。しかも、「彼と一しょにいるのが嫌で嫌で」と云いながら、〈青白き大佐〉に誘われて同行するのだ。
 果たして〈鉄路のほとり〉は居ない。そこは〈緑の島〉が居るところでもある。すると今度は〈緑の島〉に会ってみようかと思ったりする。「その心の動きは、私自身説明出来ぬものです」とほざく。幸いというのか〈緑の島〉は居ない。もし居たらどうなっていたのか。
 もとよりこの遺稿『幾度目かの最期』は、必ずしも小説ではない。が、あくまでも作品である。「これは小説ではない。ぜんぶ本当。真実私の心の告白なんです」と云うのは、実際に死を前にした嘘偽りのない本当の事かも知れないが、「これは、私の最後の仕事」とも云っている。
 騙されてはいけない、この遺稿の署名が、本名の川崎澄子であったというような指摘はどこにも見当たらないのである。
 物書きである久坂葉子と、二十歳そこそこの生身の女で、一介の生活者に過ぎない川崎澄子は、血肉を分けたものであったかも知れないが、必ずしも同一ではない。本人ですら最早どちらがどちらであるか区別がつかなくなっていたとしても。
 いずれにしろ、これは彼女の側からの真実で、男たちの立場からは別の言い分もあったであろう。(今これを書いていて、私はふと、少し前に自殺したアイドル・タレントを思い浮かべてしまった)。
 実際、これから自殺しに黒部へ行く、などと予告されても、された方は堪ったものじゃない。しかもそれを簡単に取り止めてしまうのだから、〈青白き大佐〉が、「本気で死ぬなら、どうして黙って行かないのか」と、「ひどく私に説教をしました」というのも当然である。
 さらにいえば、最愛の人がいるにも拘らず、どうでもいい男と連日のように呑み歩いているようではお話にならない。
 小川和佑氏は、彼女を〈小妖精〉と名付ける。

 久坂葉子、その名は、敗戦直後の時代、まぎれもなく、われわれの世代の小妖精であった。(『埋没した青春』前出)

 確かにそうであろう。同時代体験者でない私にもそう思える。しかし、とんでもない妖精である。いま流行りの言葉でいえば、ある意味では魔性の女と呼んだ方がいいかも知れない。富士正晴氏もこう述べている。

 ……彼女の外貌は十八才の少女から三十二、三才の若奥様までの巾で色々変化することがあった。(久坂葉子作品集*「人文書院版」あとがき)

 ただ、彼女が美貌の持ち主だったということは、伝説に華を添えるものではあるが、本質的な問題ではない。
 もっとも、例えば沖田総司は本当は平目のような顔だったらしいが、(土方歳三は正真正銘の二枚目である)、美青年だったと思いたいというのと同じで、醜女だったといわれるより、美人であったといわれた方が想像力をかき立てられるのは人情である。しかし考えてみれば、たとえ十人並みの容姿であったとしても、二十歳前後の才気溢れる女性が美しく見えないことがあろうか。
 十八歳からわずか数年の間に、次々と迸るように作品を生み出していった彼女。「書くということに何の論理も持っていなかった」と自身述べているように、その創作活動は、小説とは何か、何をどのように書くかというようなことよりも、魂の命ずるままに吹きこぼれるように物を書くということに力点が置かれていた。
「書かなければおさまらない衝動にかられ」、「その衝動の引力でもって」一息に書く。「安産であった」とも云う。本能的な物書きの血の成せる技だ。
 最初の数年はミューズが彼女を支配していた。あるいは乗り移っていた。しかし、あまりにも疾く走り過ぎたため、息切れするのも早かった。
 家との確執(彼女は、神戸の旧家、というより名家に近い家に生まれた)、恋愛問題、ラジオ放送の猥雑な現場での仕事や演劇活動(それらはまた、恋愛とも切り離せない問題だった)、要するにそういった私生活が荒れてきたので書けなくなったという見方も出来るが、逆に、書けなくなったから生活もすさんでいったという方が当たっているかも知れない。
 彼女がその後も生き続けていたとしても、大作家になっていたかどうかは疑問である。ただ、昭和一桁世代の、最も早い段階での、最も若い時代の代弁者であったことには変わりない。
 十九歳で芥川賞候補の史上最年少記録(これは半世紀以上破られることはなかった)となった『ドミノのお告げ』(原題『落ちてゆく世界』)は、十八歳(書いたのは)とは思えない冷静な筆致で書かれているだとか、瑞々しい感性の迸る文章だとか、単にそのような形容で片づけられるものではなく、当時まだ誰も書かなかった、あの世代の一つの真実を伝えている。
 私はリアルタイムで作品を読んでいるわけではないので、その登場の鮮烈な印象は想像でしかないのだが、判るような気がする。当時は文芸評論家であるよりも詩人であった小川和佑氏は、
「……私よりも一歳年下の十九歳の少女の作品に私はひどく驚嘆した記憶がある。それと同時に率直にいえば『作品』のような雑誌に発表の場を持つ久坂葉子という少女に羨望を感じた」(『埋没した青春』前出)
 と述べているが、同様のことを、当時まだ無名の文学少女に過ぎなかった曽野綾子氏も、それを「文学上の嫉妬」という風に告白*している。
 無論そういうことだけでなく、少なくとも、同じ零落貴族を扱った、この二年前(昭和23年)に大ベストセラーになった太宰治の『斜陽』より、よほどリアリティがある。
 個人的には、同人誌デビュー作(作品としては二作目)である『入梅』が、語り手の戦争未亡人である若奥様が何とも可愛らしくて私は好きである。
 ところで、彼女がその後生きていたらどうなっていたか。この時点では、精神的にはともかく、すでに男なしでは生きてゆけない体になっていたというようなことはなかったであろう。
 しかしこのような生活態度のまま二十代後半を迎えていたら、やがてきっと肉体的にも男なしではいられない、本当にただの馬鹿な女になっていたのではないか。彼女が相当の愛煙家であるのはよしとしても、酒に溺れていたのは気になる。かなり酒乱の気もある。アルコールは、官能に関していえば、男より女の方により効く。男の性はどこまで行っても直線的であるが、女の性は底無し沼にもなり得るのだった。
 勿論、人生なんてどこでどう変わるか分からない。素晴らしい男性――それはきっと白馬に跨がってはいないだろう――が現われて、普通の生活者として幸せな人生を歩んでいたかも知れないし、永く暗い青春の彷徨の末に、突然三十を過ぎて作家として見事な変貌を遂げていたかも知れない。いずれにしろ詮のない想像であるが……。


*久坂葉子の遺稿『幾度目かの最期』は、同時期に、島尾敏雄・庄野潤三・前田純敬などがいた神戸の有力同人誌『VIKING』の第47号(『VILLON』第4号との共同編集による追悼特集号)に発表され、昭和28年5月号の『新潮』には「遺書」という扱いで掲載された。これに対して富士氏は、私はそうは取らない、「遺稿とすべきだろう」と述べている。
 末尾の日付は(昭和二十七年)「十二月三十一日午前二時頃」となっている。そしてその日の夜、彼女は阪急六甲駅のホームから電車に飛び込んだのだ。
 死の翌年の6月、遺族から編集を任された『VIKING』の主宰者であり世話人であった富士正晴編集による作品集『女』(小説・戯曲・詩からなる)が人文書院から刊行された。
 富士氏が解題風のあとがきを書いている。先に記した富士氏の言葉はこれに依る。『久坂葉子の誕生と死亡』はこの時初めて発表された。
久坂葉子作品集『女』六興出版版函 その後、同じ『女』という表題でいくつかの作品を組み替えて、昭和53年12月31日六興出版から再刊された。私が手にしているのは後者の方である。帯に井上靖・曽野綾子の両氏が短文を寄せている。
「文学上の嫉妬」云々という曽野氏の言葉は、もともと『新編人生の本』第一巻「愛をめぐる断想」(文藝春秋刊・発行年不詳)に、『幾度目かの最期』が収録された際に寄せられた言葉だという。
 ところで、私がこの本を手に入れたのは、たぶん大学一年の時だったと思うが、江古田の古本屋である。普段の行動半径にない江古田に、何故いたかということも含めて、思い出深い一冊である。


〔初出〕『日&月』第4号・1997 秋(平成9年9月発行)
「本の中へ 本の外へ」(1)
(平成9年6月21〜27日稿/8月23日補記)

『日&月』第4号


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