この長篇評論は、まずはじめに、昭和四十八(一九七三)年九月に潮出版社より刊行された。その後、平成三(一九九一)年の四月には、新装版として冬樹社から再刊されているので、今回の文庫化で三たび装いを改めることになる。
解説など必要としない明解な書であるが、いくつかの際立った特色を挙げることができるので、ここで列挙してみよう。
三島由紀夫−−この稀代の作家を論じた書物は、純粋に文学的なものに限っても、それこそ膨大な数にのぼる。しかし、その中にあっても本書は、三島由紀夫(というより平岡公威)の少年時代の詩篇を真正面から捉えたほとんど唯一といってもよい評論である。タイトルが示す通り、これが本書の第一のそして一番大きな特色といえる。
三島由紀夫という作家は、その生涯を休むことなく猛スピードで駆け抜けて行った。それは十代とて例外ではない。しかし、はじめから三島が三島であったのでは当然ない。このたぐい稀な早熟の才を閃かせた作家については、したがって、その生い立ちや作家としての成り立ちに焦点を当てた評論や評伝なども数多く書かれている。ところが、そこでいつも問題にされるのは、詩についていえば、文壇デビュー以後生前唯一公にされた、「十五歳詩集」の冒頭詩「凶ごと」一篇に限られていた。この一篇だけでは不十分であるばかりか、作家の死と直結するものとして、文学者三島由紀夫を曲解する危険性がある。このことは本稿で詳しく述べられている通りなのだが、本書のように、三島の少年詩篇のほぼ全容から読み解こうとする論考は、かつてもそして現在も他には類を見ないのである。
本書はまず第一に、作家研究として非常に貴重な位置を担っているといわねばならないが、その骨格を支えているのは、
「三島由紀夫はなぜ自決したかという問題はその死以後、現在まで、もっぱらその思想の次元において論じられて来た。イデオロギーがその文学に先行する三島由紀夫論を筆者は好まない。彼は、この筆者が同時代者として生きた作家は思想家である前に、なによりも作家であった」
と新装版のはしがきで、小川和佑氏がその立場を明らかにしている通り、文学をあくまでもその作品から読み取ろうとする著者の真摯な姿勢である。
小川氏はまた初版のあとがきで、
「私は作家の死後、あえて作家を論じなかった。そして、作家が遺していった六十余篇の少年期の詩を繰り返し読み続けた。この一冊はそのいわば『少年詩篇』というべきものとの私の対話である」
と述べているが、これはまさしく魂と魂の対話といえもので、全篇通してそこに息づいているのは、評論家の冷徹な眼ではなく、何よりも詩人の眼であり、詩人の心である。ともに同時代を生き、文学を愛してやまない詩人の心。この二つが作品を通じて出会い、そして対話する。
小川氏は、一切の夾雑物を排し、固定観念に捕らわれることなく、少年三島が残した詩篇を、一篇一篇、まずその作品そのものを読むことによって、そこから何が見えてくるのかを丹念に解いてゆく。この場合も、あくまでも十代の少年詩人の心に即して。ここに、通例の作家論や文芸評論と趣を異にする、本書の色彩を決定している大きな特色がある。
さらに、今まで述べてきたことと関連するのだが、第三の特色は、肝心の論じられる対象となるべく詩篇が、ほぼ年代順に略されることなく収められている点で、これは読者にとってたいへんありがたい。というのは、この本が世に出た時点では、新潮社の『三島由紀夫全集』はまだ完結しておらず、その詩篇を収録した第三十五巻が配本されたのは昭和五十一年四月であったから、「十五歳詩集」を収めた『三島由紀夫選集1』(昭32・11、新潮社刊)を手にしたことのある古くからの読者以外、三島の詩そのものを閲覧する機会は普通にはなかったのである。しかしその全集も、個人全集としては異例なほど版を重ねたはずだが、現在では古書店などでしか手に入らないだろう。したがって、全集を繙くほどではない一般の読者や若い読者にとっては、誠に親切な設計になっているといえる。
これも本稿が、まず作品を読もうという主眼に基づくものであることを如実に示している現れであるが、この本を、実現することのなかった一冊の「三島由紀夫詩集」として読むことを可能にしている。
それに付随して、これが一般の読者を拒絶するような評論ではないということが、第四の特色に挙げられる。端正で明晰な文章。論理の展開も明解であり、晦渋なところはどこにもない。また、本論の章と章との間に、著者は私的回想をさり気なく挿入しているが、それによって、理解がより一層深められるだけでなく、ある種の物語としても読めるのだ。三島文学の読者にも、小川和佑氏の読者にも、そして文学一般の読者にも、快く読めるはずである。この長篇があたかも一篇の詩であるかのように。そこが多くの三島論とは異なる
ところで、評論のための評論でも、研究一点張りのものでもなく、かといって単なる詩的エッセイでもないので、文学研究家の研究論文にはない詩性があり、その一方で、詩人による作家論には通常欠けがちな、作家研究としての本流が根底には脈々と流れているのである。
――ここで著者について簡単に触れておくと、小川和佑氏は、昭和五(一九三〇)年四月、東京の目黒に生まれ、早くから文学を志し、当時としては特異な存在であった明治大学の文芸科に入学している。在学中からすでに文筆家としてスタートしており、卒業後、教職に就く傍ら、上智大学等の大学院で学び、いくつかの短大の講師を歴任し、昭和女子大の助教授となる。同大学を辞してからも、明大をはじめ、宇都宮大、大東文化大、東京電機大などで文学を講じながら、文芸評論家として現在に至っている。
立原道造の研究家として出発した氏は、堀辰雄、三好達治、伊東静雄など雑誌『四季』に拠った詩人、作家を中心に、近代文学の研究家として知られるが、それに留まらず、『サンデー毎日』の書評欄や『関西文学』の文芸時報を長年担当してきた氏は、現代文学の広範囲な論客として、いわゆる純文学の範疇に留まることなく、その視野は同人雑誌にまで及んでいる。特徴的なことは、そのスタンスが常に詩と小説の双方に跨がっていることだ。近年は、『桜の文学史』(平3・3、朝日文庫)や『桜と日本人』(平5・6、新潮選書)などによって新境地を拓き、変わったところでは、東京の都市文化を軽妙な語り口で綴った『東京学』(平8・1、経営書院刊)などという著書もある。その一方で、『近代日本の宗教と文学者』(平8・2、経林書房刊)という重厚な評論も上梓している。
しかし、何よりも氏はまず詩人であった。詩人から評論家や研究家になった例はあまりない。勿論、詩人兼評論家という者もいるが、一般に詩を解する評論家や研究家は少ない。日本では、(これはあくまでも近代以降のことではあるが)、文学=小説という傾向が強く、詩は疎かにされがちだが、わが国の文芸評論家の多くが詩を苦手としていることにも因る。三島由紀夫の論者の多くが、この少年期の詩篇を無視しているというよりは、実はあまりよく理解されていないのではないか。文学の体験がイコール小説体験であり、詩的体験を持った研究家が少ないことにも起因している。
そんな中に置いてみると、この本の貴重さは際立ってくる。三島由紀夫研究として、外すことのできない第一級の文献であるばかりでなく、誰も書かなかった(書けなかった)三島の詩的遍歴を辿った評伝として読むことができる。
いや、もっと言えば、ここに登場する一人の少年詩人が、後年、国際的にも著名な作家三島由紀夫となるということを考えなくても成り立ちそうである。例えば、平岡公威が学徒兵として戦地に赴いていたらと。実は本書の神髄は、三島由紀夫でなくてもよい、一人の無名の少年が、その詩に刻み込んだ抒情の軌跡を、判りやすくしかも高い所からではなく示してくれている点にある。それは、ある少年の心の歴史といえる。
二十一世紀も間近に迫っている。三島由紀夫が存命ならすでに七十代。しかし、時代がどう変わろうが、少年の心はいつだって変わらない。現在でも、日本のどこかの中学の教室に、人知れず平岡公威はいるのではないか――。彼らにこそこの書物を捧げたい。
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