短説と小説「西向の山」 ホーム随筆の庭久坂葉子について/三島由紀夫のスポーツ論/「伊東先生」の言葉小川和佑『三島由紀夫少年詩』解説


平成十六年五月八日から十六日までの約一週間、普段ほとんどテレビを見ない私も、女子バレーボールのアテネ五輪世界最終予選兼アジア予選大会には釘付けだった。無敗で迎えた最終日、日本はロシアに〇−三のストレートで敗れ、全勝はならずも一位通過となり、二大会振りの五輪出場のキップを手にした。
 そう、今年はオリンピックの年。一八九六年の近代オリンピック第一回大会から一〇八年、めぐり巡ってアテネに戻ってきた。発祥の地での開催である。

それで思い出したのだが、六年前、以下に転載するエッセイを書いた。
 詩の雑誌で、なぜ「スポーツ」特集なのか、また、どうして私に原稿依頼が来たのか、そのへんの事情はよくわからないが、小川和佑先生の推薦であることは間違いない。しかし、現在ならそれも納得いくのだが、当時の私はスポーツとは無縁であった。また、三島由紀夫にからめてというような指定もなかった。
 現在、地元ではすっかりスポーツマンとして通っている私だが、私がソフトボールに熱中し、日常的に運動をするようになったのは、この稿を書いた二年十か月も後のことである。
 今なら、もっと別の論を書けるかもしれない。しかし、私にとって、行き着くところは、やはり最後の一行に尽きるのは変わらない。(平成十六年五月十七日)
(原文に改行を多めに付加)


三島由紀夫のスポーツ論

――或いは、運動のすゝめ

西山正義



 最初この原稿の話があった時、なぜスポーツなのかと思った。締切りが迫り、いざペンを持つ段になって、そうか、明日から長野オリンピックが開幕するのだということに気づいた。この原稿が活字になる頃にはすべて結果が出て、五輪熱もとうに冷めているだろうが、今年はオリンピック・イヤーだったのだ。
 オリンピックといえば、我々日本人にとって忘れられないのは、かの東京オリンピックであろう。もっとも私はその前年に生まれたばかりなので、体験としての純粋な記憶は全くない。
 それでも当時の雰囲気を肌で感じることはできるし、マラソンのアベベや円谷幸吉選手、東洋の魔女と呼ばれた女子バレーなどは、記憶にあるような気がしてくるから不思議だ。無論これには、テレビの普及とともに繰り返しその映像を見せられてきた影響もあるのだろうが。
 冬季五輪では何といっても札幌だ。スキーの70メートル級ジャンプ。笠谷、金野、青地の三選手による金、銀、銅の独占は、小学二年生だった私でも鮮烈に覚えている。
 しかしその直後に、連合赤軍による浅間山荘事件が起こるのだった。そして翌年のオイル・ショック。その後、いわゆる“黄金の七十年代”を経て、バブル経済の興隆と崩壊を迎えるわけだが、今にして思えば、東京オリンピックから万国博覧会が大阪で開かれたあたりまでが、日本の頂点だったような気がする。
 話が逸れたが、その東京オリンピックを作家の円熟期に際し熱心に取材し、万博の年に自決した三島由紀夫に、『実感的スポーツ論』というエッセイがある。
三島由紀夫『荒野より』初版函 これは、ちょうど東京オリンピック開催に合わせて読売新聞に五回連載されたもので、のちに、小説、評論、エッセイ、戯曲を集めた『荒野より』(昭42・3、中央公論社刊)という変則的な作品集に収録されている。これは中公文庫になっているので現在でも簡単に読める。
三島由紀夫『荒野より』文庫版カバー(尚、単行本でも文庫版でも、初出一覧では三回の連載のようになっているが、これは二回分の日付が抜け落ちたもの。また、以下の引用は、新字体、新仮名遣いによる中公文庫版を底本とする)

……私も体育の世界に親しんでかれこれ十年になろうとする今、多少、体育について語ってもよい時期が来たと考える。

 ということで始まるこのエッセイ。まず第一に「体育へはいったキッカケ」として、「少年時代からの強烈な肉体的劣等感」があったということが述べられ、文筆稼業の「不自然不健康な仕事は、しょっちゅう胃痛を起させ、このままほうっておいたら三十代でペシャンコになるかもしれぬ、という実際的危惧も加わって」、虚弱体質のかつての「青白き文学青年」が、三十を過ぎて突如としてスポーツを始め、そして目覚めてゆく過程が語られる。
 具体的には、例の悪名高きボディビルとの出会いから、ボクシングと剣道体験が。そして最後に、「私の体験した日本のスポーツ教育とスポーツ観のあやまりを書いてみよう」というエッセイなのである。
 三島由紀夫とスポーツの関わりは、確かに常識的に見ればかなり特殊な例である。ただ、その特異性を云々することはいくらでもできるし、三島由紀夫という作家を考える上でも一考に値するのだが、そんなことよりも、我々自身の生活を振り返って見た時、現在でもいろいろ興味深い問題がここに浮かび上がってくることの方が重要だ。――三島はこう言う。

 学校スポーツの隆盛時代とはいいながら、選手と部活動が独占権をふるっており、一例が高校・大学のテニスコートでも、部員以外のものが自由に使用する余裕はほとんど与えられない。(中略)社会の技術化専門化細分化が、学校教育にまで早くから影を投じているのである。
 私は自分の少年時代を思うにつけ、体力や才能に恵まれぬばかりに、スポーツの門から永久に拒まれているかわいそうな少年の面影が目にうかぶのである。一つぐらい、対校試合にも一切参加せず、そのかわり学生全部の体位向上に、個々人の能力に応じて十分注意を払う学校が出て来てもいい筈である。

 これは学問についてもいえることかも知れない。このあとに続く、「このごろの背ばかり高くてモヤシのような少年群を見るにつけ」というあたりは、三十年後の今日でもかかる事情は全く同じで、それどころか悪くなっているとさえいえる。
 東京オリンピック前後に生まれた私たちの世代に比べても、体格だけは益々大きくなっているが、逆に体力や運動能力は低下している。確かそういう統計があったはずだ。そしてもっと問題なのは、社会人の運動不足ということである。

 社会人のスポーツというと、見るスポーツだけ、行うスポーツはゴルフだけ、というのが現況であって、社会生活の烈しさが増すにつれて、三十代で早くも老化現象を起す人たちがますます増加する。
(中略)社会人は、暇もなければ、その機会もない。たまたま勤め先に道場や体育館があっても、実業団の選手に独占されている点では、学校と同じである。

 三島が、「三十代のスポーツがいかに必要であるかは、私が身をもって体験した」というのは、本当に実感だと思う。これは三島一流のポーズでもなんでもない。
 二十代はまだいい。少しぐらい羽目をはずしたり、無茶をやっても。無軌道な生活も若さゆえ、それもいいだろう。いやある程度はそれもまた必要なことだ。しかし実際には、生命体としての人間の体は二十代からすでに老化が始まっているのであり、それをケアしておかないとあとで響いてくる。成人病(最近は十代でもなるらしい)も更年期障害も、三十代から四十代の生活がそのまま反映される。
 ところが、この年代は社会の中枢を担っていて、家庭生活においても子育ての時期に重なり、とにかく暇(というより余裕)がないのだ。三島はこんなことも言っている。

 オリンピックを機会にこれほど各種の競技場が新設されても、それは選手および観客のためのものであって、素人が自由にスポーツを行う場所ではない。
 たとえば私は空想するのだが、町の角々に体育館があり、だれでも自由にブラリとはいれ、僅少の会費で会員になれる。夜も十時までひらいており、あらゆる施設が完備し、好きなスポーツが気楽にたのしめる。コーチが、会員の運動経験の多少に応じて懇切に指導し、初心者同士を組み合せて、お互いの引込み思案をとりのぞく。そこでは、選ばれた人たちだけが美技を見せるだけではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会が与えられる。……こういうスポーツ共和国の構想は、社会主義国でなければ実現できない、というものでもあるまい。

 このあたりの事情は、さすがに三十年を経て、多少は良くなっている。町の角々とまではいかなくても、公営の体育館なども整備されつつあるし、一時はブームに乗って高額の入会金を強いられた私設のスポーツ・クラブもだいぶ開放されてきて、サラリーマンやOLが、会社帰りにスポーツ・ジムに寄って一汗かくというような光景も珍しくなくなってきた。
 それでも、誰もが手軽にというほどには普及していないのが実情である。運動経験のほとんどない者や高齢者、障害のある人にとっては、依然敷居が高い。
 いや、日本人の悪い癖で、堅苦しく考えるからいけないのだ。やれウェアーを揃え、シューズを揃え……。ラジオ体操も真剣にやればけっこういい運動になる。急に本格的にやっても体を壊すだけだから、一日十分程度のストレッチ体操だけでもいいのだが……。一人ではなかなか続けられないということもある。
 ――ところで、以上は一般論である。
 それでは、物書きにとってスポーツとは何だろう。もちろん、物書きとて一般社会人と何ら変わりはないのだが。
 大体において、詩人や文士というものとスポーツは、結び付いた像としてイメージしがたい。ということになっている。田中英光のような正真正銘の元オリンピック選手作家もいるが、一般的には相反するように思われている。必ずしもそうとは限らないのだが、世間ではそういうことになっている。
 ところが現在では、これは過去形で言う方がいいのであって、文士という言葉が死語になったのに伴って、例えば、宮本輝がテニスをし、村上春樹がトライアスロンをやったり、某詩人が草野球チームを作っても、今では別に奇異な感じはしない。もっとも島田雅彦がボディビルを始めたら驚くかも知れないが、軽いウエート・トレーニングやジョギングくらいなら理解できる。それが柄谷行人でも納得するし、金井美恵子や俵万智がエアロビクスをやっていたとしても不思議ではない。
 その先駆者といえるのが三島由紀夫だった。
 当時は、物笑いのタネになり、天才作家の奇行の一種とされていたが、精神面や頭脳面が強調される物書きといえども、ペンを動かすにしろ、ワープロのキーを叩くにしろ、体を動かさなくてはならないわけで、健康や体力は必要なのであった。
 必要以上に腕力をつけたり、スポーツ選手並みにやる必要はないが、体を動かし、汗を流し、肉体を鍛えるということは、健康を保つということ以上に、忍耐力と持続力をつけるということであり、詩を書いたり歌を詠む場合はいざ知らず、小説や評論などの散文を書く場合は是非とも必要なことである。
 散文は一にも二にも忍耐と持続である。散文を書くのはマラソンに似ている。村上春樹がマラソンをし、さらにはトライアスロンにまで挑戦するのは誠に理に適ったことである。
 また、どんなスポーツでも要求されるのは、呼吸法、すなわち息づかいであり、それは文章を書く場合にも当てはまる。それに体が引き締まれば、自ずと抑制のきいた文章になるだろう。こうした肉体的条件というのは、案外影響してくるのではないかと思う。
 いやそこまで考えなくても、スポーツをすることで、単純に身も心もリフレッシュできるのだ。そう思いながらこのエッセイを素直に読むと、体を鍛えるとまではいかなくても、少しでも運動しなければと痛感させられるのだった。
「運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれている。どんな権力を握っても、どんな放蕩を重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知ったとはいえないであろう」と三島由紀夫は結ぶ。三島に言われたくはないと思うかも知れないが、ここは素直に耳を傾けよう。
 さあ、体を動かすのだ。汗を流そう。脳に血を送り、今日も元気に会社へ行こう。茶碗を洗ったり、掃除をしよう。そして原稿用紙に向かうのだ。


〔初出〕詩マガジン『PO』91号/特集「スポーツ」
平成10年5月10日竹林館発行
(平成10年2月7日稿)



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