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西向の山/文学散歩 神田駿河台の坂の名前と石標


 僕が学生時代に通い、そして今また通勤している神田駿河台という所は、その名の通り台地で、坂が多い所です。坂が多いというより、坂だらけと言ったほうがいいでしょう。いや、街全体が坂と言ったほうがいいかもしれません。
明治大学裏の錦華坂 そしてその坂ごとに、坂の名前を刻んだ小さな石標が設置されています。どういういきさつがあるのかは知りませんが、昭和50年に「駿河台西町会」の人たちによって設置されたようです。気にして歩いていなければ見落とされてしまうような、ほんの小さな石ころで、表に坂の名が、裏に「昭和五十年一月 駿河台西町会 ○○○○」と刻まれているだけのものです。
 全部でいくつあるのか。長年この界隈を徘徊していながら、よくわかっていません。先日はじめて気づいたのですが、坂の名前を刻んだ文字は、坂ごとに別の書家が揮毫しているようです。
 まずは二つ。坂の全体像や場所、由来などは省略します。石標だけでどの坂かわかる方は神田通ですね。


雁木坂の石標  錦華坂の石標

 次の二つは、駿河台一のメインストリートと、その御茶ノ水−神保町間のほぼ真ん中から西へ直角に登る最も駿河台らしい坂。どちらも明治大学に因んだ名がついています。
「吉郎坂」の「吉郎」とは、元明治大学総長で商学博士の佐々木吉郎先生のこと。昔は「胸突坂」と言ったそうです。現在でも結構な急坂で、登り切った頂上に、昔はよく作家が“缶詰”になった「山の上ホテル」があります。


文坂の石標  吉郎坂の石標

 左の石標は、雨模様で光量が足りず碑面が暗くなってしまいました。クリックで拡大すれば文字もはっきり見えますが、左の女性二人のほうに目が行っちゃうかも (別に狙ったわけではありませんが)。


「男坂」「女坂」と呼ばれる坂は日本全国至る所にあるでしょうが、これは神田駿河台のそれ。どちらも坂道というより階段です。女坂のほうもけっこう急ですが、踊り場が一つ多く、途中で屈折させているため、ほとんど一直線に下る(登る)男坂よりは多少緩やか。東京では同じ千代田区内にある神田明神脇の男坂・女坂が有名ですね。
 通常、隣接あるいは平行する坂が二つある場合、急なほうを男坂、緩やかなほうを女坂と称するわけですが、ここは、西よりの女坂の先にはアテネフランセ(なんとなくハイカラな女子学生が多いというイメージ)と、坂下には神田女学園があり、男坂に平行して男子校の明大明治中学・高校があります。
 ※明治中高は平成21年に調布市へ移転しました。が、その跡地は明大主体で設立される東京国際マンガ図書館(仮称)になる予定のようです。


男坂の石標  女坂の石標

 この二つの坂は、「大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたもの」(出典:『東京23区の坂道』)だそうですが、アテネフランセと明大明治は当時すでに現在と同じ(もしくは隣接する)場所にあったようです。神田女学園は昭和10年当地に移転。従って、名前の由来は不明ながら、明大明治とアテネフランセに負うところが大なのではないでしょうか。
 男坂はもちろん女坂にしても、ミニスカートの女性は登れませんね。いや、そのうしろについて登るのはよしておいたほうがいいでしょう。間違えなく怪しまれます。

皀角坂の案内板 さて、この坂の名前、読めるでしょうか。
−「皀角坂」−
 猿楽町二丁目と三崎町一丁目の間を南北に走る「小栗坂」を登り切った所から交差するように、西から東へちょうど神田川(というよりJR中央・総武線)に沿って御茶ノ水方面へ登る、なだらかなようでけっこう勾配のある長い坂。
 ……
 正解は「さいかち坂」です。
 千代田区設置の案内板によると、『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」と書かれているそうです。「『サイカチ』とは野山にはえる落葉高木」とのこと。『新編江戸志』が上梓されたのがいつだかわかりませんが、おそらくこの辺りは江戸時代の後期にはすでに都市化が進んでいたのでしょうね。


皀角坂の石標  皀角坂の芭蕉(?)句碑

 駿河台西町会が設置した石標は、ほとんど這いつくばって超ローアングルかれでないと碑面が撮れません。
 右は、坂の途中にあるマンション(?)の植栽にぽつんと設置された坂の名前に因んだ句碑。
「皀角子の実はそのままの落葉哉」
 芭蕉の句とも言われていますが、定かではありません。

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夏目漱石母校の碑 さて、今回は文学にあまり関係のない探訪になりましたが、最後にこの地区で忘れてはならない文学碑を。
「吾輩は猫である
  名前はまだ無い
    明治十一年 夏目漱石
           錦華に学ぶ」

 の碑です。
 御茶ノ水側から言うと、明治大学のアカデミーコモンを回り込んで、山の上ホテル裏の錦華坂を下り、途中錦華公園を抜け、猿楽町の通りを神保町方面に行った所。現在は統廃合でお茶の水小学校になりましたが、旧錦華小学校の猿楽町側のフェンス沿いに建っています。漱石母校の碑です。


(平成18年3月15日/3月17日/7月21日/7月22日/8月1日/8月8日短説[tansetsu]ブログ」より再構成)

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