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西向の山/文学散歩 善光寺参りとその文学碑めぐり
−(良寛、汀子、山頭火、一茶、漱石、井月)


宿坊「縁起堂・淵之坊」■“牛に引かれて善光寺”
 平成30年4月9日信濃追分から軽井沢、10日別所温泉を経て、11日(水)午後2時すぎに長野市の善光寺にやって来ました。かの有名な善光寺です。
 私たち夫婦はともにお初。結婚30周年記念に「一生に一度は善光寺参り」が実現するわけです。
 雨がぽつぽつ降ってきました。優しい雨です。傘を買って、長野駅からてくてく歩いてきました。泊まるのはもちろん宿坊です。

■宿坊・淵之坊(縁起堂)
淵之坊の特別室窓から目の前の善光寺大本願を望む 善光寺には39もの宿坊があるそうですが、宿坊も境内で、それぞれに御堂があり、ご住職がおります。私たちがお世話になったのは、その中でも南西エリアの手前(南から)二番目の「縁起堂・淵之坊」さんです。
 この日はたまたまイギリス人の夫婦と私たちだけで、その夫妻の希望があり、私たちが次の間付きの特別室を案内されました。割安の料金で予約したのに幸運でした。
 窓からは、仲見世通りをはさんで善光寺大本願の甍が正面やや右に見えます。頸を巡らせば仁王門(重要文化財)も見られます。

■写経と精進料理
 ひと息ついて、さっそく淵之坊(縁起堂)の内仏殿にお参りし、写経をしました。般若心経の深い意味はよく分かっていなくても、心を落ちつかせ筆で文字を一心に写していると、気持ちが洗われてきますね。
淵之坊の和室(特別室) その写経は願い事とともに、翌朝の「お朝事」に善光寺へ奉納されます。
 そして精進料理。肉や魚だけでなく卵・乳製品などすべての動物性食品と、さらに煩悩を生ずるとされるネギ・ニラ・ニンニクなどを一切使わない仏教寺院としての正式な精進料理ということで、ひとつ先の部屋の外国人の舌に合うのか気になりましたが、現代ではむしろヨーロッパ人の方がベジタリアンも多いし、まあ知っていてあえて宿坊に来ているのでしょう。


■お数珠頂戴とお朝事
 翌日早朝、いよいよ参拝です。善光寺山門(重要文化財)宿坊専属の善光寺公認案内人に引率され夜明け前に出発。
 日の出とともに本堂で始まる勤行「お朝事(あさじ)」は、善光寺の全ての僧侶が出仕して、一年毎日欠かさず行われる法要です。
 善光寺住職である大勧進の御貫主(おかんす)様と大本願の御上人(おしょうにん)様が導師として本堂に出仕される際、その往復の道中、手にされた数珠をひざまずく参拝者の頭に触れ、功徳を授けてくださるのが「お数珠頂戴」です。私たちも並んで頭を垂れました。(写真は山門とその奥に見えるのが本堂) 

■びんずる尊者とお戒壇巡り
善光寺本堂(国宝) 国宝の本堂に入るとまずは「びんずる尊者」が出迎えてくれます。三百年以上撫でられ続け、ずるむけになっていてちょっと不気味。
 お朝事では、普段は閉ざされている戸帳が上げられ、善光寺の御本尊である一光三尊阿弥陀如来像(絶対秘仏)が納められた瑠璃壇と厨子が垣間見られます。
 勤行に参列したあとは、その瑠璃壇の真下を通る真っ暗な通路を巡ります。「お戒壇巡り」です。本当に真の暗闇です。その中を歩み、御本尊と結ばれた「極楽の錠前」を探ります。
善光寺山門の上から望む表参道 ご導師退下のお数珠頂戴を受け、いったん宿坊に戻ります。精進料理の朝食をいただき、もう一度山門をくぐります。
 山門(重要文化財)の上層部は拝観でき、文殊菩薩騎獅像、四天王像、四国八十八ヶ所霊場ゆかりの仏像などが安置されています。
 写真は山門の上から見た本堂と表参道(長野市の中心街方面)です。
 善光寺のさまざまな見所をすべて挙げていると紙幅が足りません。いやいくらでも伸ばせるのでしょうが、あとは主な文学碑のみを。ほかは善光寺の公式サイトをご覧ください。 

歩く白猫の区切りマーク

■良寛詩碑
 仁王門の西側の脇にあります。古いものではありません。黒御影石の碑面にはこう刻まれています。
 
   再游善光寺
  曾従先師游此地
  回首悠悠二十年
  門前流水屋後嶺
  風光猶似昔日妍
       良寛

【案内板】
 この漢詩は良寛さまが四十二歳
のころ帰郷の途時二回目の善光寺
参詣の折におつくりになられたものです
   再び善光寺に遊ぶ
  曾って先師に従って此の地に游ぶ
  首を回らせば悠々二十年
  門前の流水屋後の嶺
  風光猶似たり昔日の妍
   平成三年三月建之
         長野良寛会
         大本山善光寺大本願

良寛詩碑「再游善光寺」

■稲畑汀子句碑
 良寛詩碑の奥に稲畑汀子の句碑があるそうですが、見過ごしてしまいました。高濱虚子の孫、高濱年尾の次女で、『ホトトギス』の主宰を継承した稲畑汀子さんは平成30年時点ではご健在で、このページを作成している半年前の令和4年(2022)2月27日に91歳でお亡くなりになっています。お生まれは昭和6年1月8日とのことですから、わが恩師文芸評論家の小川和佑先生と同学年ですね。

よべ星と語りし秋を惜しみ発つ (昭和五十五年秋於善光寺)


■善光寺の句碑群
 本堂と山門の間くらいの東側エリアの庭園のようになっている一画に、善光寺ゆかりの文学者の句碑が建ち並んでいます。
 山頭火句碑の建立は平成8年(1996)のようですが、漱石句碑は平成23年(2011)、井月句碑は平成24年(2012)に建てられた新しい文学碑で、おそらくその際に並べて整備されたのでしょう。このようにきれいに整然と並んでいると、一見いいようなものですが、石碑としての趣や風情はありませんね。

善光寺の句碑群  善光寺の句碑群

 案内板も統一的に整備されていて、確かにこれなら誰でも分かるのですが、肝心の石碑は見ずに、案内板だけをちらっと見てふーんと通り過ぎられてしまいそうです。いやまあ、この種の案内板に目を留める人はまだましといえますが。
 なにか教育委員会の文教政策的な感じがします。そうなると文学の面白みが減じるのですが、現代ではこうなるのも致し方ないのでしょうね。まったく足を止めようとしない人も多いのですから。別に意識高い系的な上から目線で言うわけではありませんが。

区切りライン

 とはいえ、このようにホームページで公開するのに、画像をそのままアップしてしまえば説明不要(テキストに落とさなくてもよい)というわけで、以下四つの句碑の解説は省略します。(碑の位置は、西から東へ)
 しかし逆に言うと、案内板だけ読んで満足してしまう懸念があります。なにゆえ石碑なのか。立派な案内板があれば、本体がなくてもいいことになりはしないか……。


■種田山頭火句碑

種田山頭火句碑
種田山頭火句碑案内板

■小林一茶句碑

小林一茶句碑
小林一茶句碑案内板

■夏目漱石句碑

夏目漱石句碑
夏目漱石句碑案内板

■井上井月句碑

井上井月句碑
井上井月句碑案内板

 どうでしょう。簡潔に解説されていますね。由来など碑の裏や側面にまわらなくても分かります。通りすがりの観光客にはありがたい案内板ですが、これでいいのだろうかとも思います。しかし、それをそのまま利用させてもらいましたので……。


■迷子郵便供養塔
 最後に、某郵便局の局長をしている中学からの親友に善光寺へ行くならここもお参りしてと言われていたのがこれ。善光寺の広い境内の一番奥まったところにあります。これは右の碑面の由来書きを横着せずに写しましょう。

迷子郵便供養塔

    縁  起
 わが国における郵便物の数は年間一一〇億通を超え米国英国についで世界第三位である
 このなかに受取人に配達することも差出人に返送することもできない郵便が一八〇万余通もある
 これら郵便として使命を果たすことのできない迷子郵便を供養するため郵便創業百年にあたり前島密先生出身の地に近いここ善光寺に全国有志諸君とともにこの塔を建てる
 昭和四十六年四月二十日
    郵政大臣 井出一太郎

 あくまでも供養塔ですから、内部には“納骨室”があり、焼却処分せざるを得なかった迷子郵便の「遺灰」が収められているそうです。私はけっこう郵便物を出していますので、一通くらいはあるかも。それが届いていたら、もしかしたら人生が変わっていたかもしれないような大事な手紙もあったでしょうね。――合掌


〔平成30年4月信州紀行/編集後記〕

 平成30年4月9日〜12日、三泊四日で、信濃追分〜軽井沢〜別所温泉〜善光寺を巡ってきました。もちろん目的は文学散歩です。結婚30年のよい記念になりました。しかし、やはり書き残さなければ思い出は薄れ、書いてこそ新たな発見もあり、ここに既成の「軽井沢文学散歩」の増補を含めてトータル22ページのホームページにまとめることで、やっと旅が完結したという感じです。四年四か月かかってしまいました。信じられないことに、数え年で還暦を迎えました。ソフトボールではシニア大会に出られる齢になってしまったわけです。

(令和4年8月16日・西山正義)


(初出:令和4年8月12日/8月13日/8月14日/8月16日短説[tansetsu]ブログ」と並行して制作のうえ再構成)

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