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西向の山/文学散歩 信州上田・別所温泉の文学碑
〔1〕〔2〕/〔3〕八角三重塔の空穂、赤彦歌碑と石造多宝塔ほか


■別所温泉の方向感覚
 別所温泉の多くの案内図は、玄関口となる駅を下にして、温泉街や北向観音を中心に森林公園を上に配しているのですが、東西南北を関係なく見ればこのほうが温泉街が用紙に対して見やすく配されるのかもしれませんが、方角的には上田電鉄別所線の線路は北東から南西に延びていて、その延長線上に、すなわち北東から南西に温泉街も延びているので、方向感覚が掴みにくのです。おまけに北向観音が通常の感覚とは逆に正面が北に向いていて、温泉街も南から北方向に延びているので、上が北を指していない案内図だと、方向感覚が狂うのです。

■安楽寺
安楽寺本堂 安楽寺は北向観音から見て北西の方にあるのですが、観音堂の正面からメインストリートである温泉街を進んだ方にあるので、何となく南の方へ進んだように錯覚します。駅を下にした地図で見ると右手に当たり、地図の上が北のつもりでいると東の方にあるように錯覚し、二重に混乱します。
 別所温泉観光協会公式ホームページには、「鎌倉の建長寺などと並んで日本では最も古い臨済禅宗寺院の一つで」、「天正十六年(1588)ころ、高山順京が曹洞宗に改めました」とあり、『曹洞宗 崇福山 安楽寺』の公式サイトによると、「鎌倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、信州学海の中心道場であったことがうかがわれます。鎌倉北条氏の外護によって栄え、多くの学僧を育てていたこの寺も、鎌倉北条氏滅亡(1333年)後は寺運も傾いて正確な記録は残りませんが、当時の国宝、重要文化財など、多くの鎌倉時代の文化遺産を貯蔵する、信州最古の貴重な禅寺となっています」という古刹です。

■八角三重塔(国宝)
 安楽寺本堂裏のちょっと小高い山を登ったところに、珍しい八角三重塔が聳えています。(平成30年現在、拝観料300円)

八角三重塔

 同上公式サイトによると、
「建立年代は平成16年の年代調査によって三重塔用材の伐採年代は正應2年(1289)ということが判明し、少なくとも1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたことが明らかになり、わが国最古の禅宗様建築であることが証明された。
 建築様式は禅宗様(鎌倉時代に宋から禅宗に伴って伝来した様式で唐様ともいう)八角三重塔で、初重に裳階(もこし:ひさし又は霧よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部も又、禅宗様の形式からなり類例が少ない。」

 とのことで、昭和27年に長野県初の国宝に指定されています。


■窪田空穂歌碑
 順路的に逆になりますが、八角三重塔へ登る斜面の手前に、窪田空穂の歌碑がありました。確かなことは検証できていませんが、昭和39年(1964)の夏に詠まれたようです。とすると、明治10年(1877)6月8日生まれの空穂は満87歳。長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)の生まれで、長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)から東京専門学校へ(一時中退、のち復学して卒業)。バリバリ早稲田派の歌人ですね。

窪田空穂歌碑「老いの眼に観る日のありぬ別所なる唐風八角三重塔」

老いの眼に 観る日のありぬ 別所なる 唐風八角三重塔

 一見(文字通り字面を見た場合)、五七五七七になっていないように見えますが、「からふうはっかく さんじゅうのとう」と分解し、促音を数えないと七七になっています。


■島木赤彦歌碑
 同じく長野県出身の歌人で、空穂より半年ほど年長の島木赤彦の歌碑が参道をはさんだ右手にあります。赤彦は明治9年(1876)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現・諏訪市元町)の生まれで、長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)出身。『アララギ』再建のため大正3年(1914)に上京するまで、長野県で教育者の道を全う。初任地の小学校では、当時まだ珍しかった野球を教えたりするような情熱的な教師だったらしいです。

島木赤彦歌碑「山かげに松の花粉ぞこぼれけるここに古りにしみ佛の像」
山かげに 松の花粉ぞ こぼれける ここに古りにし み佛の像

 案内板によると、「大正十二年の春、別所温泉に遊び、この詩を詠んだ。
み佛の像とは
 前開山 樵谷惟遷禅師
しょうこくいせんぜんじ(重要文化財)
 全二世 幼牛恵仁禅師
ようぎゅうえにんぜんじ(重要文化財)
両禅師のことである。」
とあります。

 この両禅師の像について、窪田空穂はこう詠んでいます。
(安楽寺前開山樵谷惟仙和尚像)
伝ふらく求道入宋の開基像 木曽の源氏の族なりといふ
(安楽寺前二世幼牛恵仁和尚像)
一切を虚無と感じてねんごろに 虚無に行ぜし僧が像拝す


■常楽寺
 安楽寺から戻り、塩田平が一望できる「さるすべり小道」という遊歩道を通って常楽寺へ。方角的には北東に進みます。
天台宗別格本山 北向観音・常楽寺』の公式サイトによると、
御舟の松「常楽寺は北向観音堂が建立された天長2年(825年)、三楽寺の一つとして建立されました。
北向観音の本坊であり、ご本尊は『妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)』で全国的にも珍しい阿弥陀様です。
長楽寺、安楽寺、常楽寺を指して三楽寺といいます。長楽寺は焼失し北向観音堂の参道入口に碑を遺すのみです。)」とのこと。
■御舟の松
 樹齢350年と言われ、宝船の形に見えることから、「この宝船で阿弥陀様が極楽浄土へとお連れします」という有り難い松です。

■石造多宝塔
「北向観世音様が出現した所で、高さ2m85cmの安山岩で出来ており国の重要文化財に指定されています。多宝塔というのは、上下二層の屋根がある塔です。下の屋根の上に饅頭形という丸いふくらみがあって、その上にまるい塔身があり、二つの屋根がその上にのっています。なお、その上に相輪という柱のようなものが立っています。」(同上サイトより)

石造多宝塔
石造多宝塔の解説看板
歩く白猫の区切りマーク

■七苦離地蔵堂
七苦離地蔵堂 常楽寺から参道を逆にメインストリートの方へ進みます。石畳の遊歩道になっています。別所温泉駅からは300mほどの辻に常楽寺が建立した七苦離地蔵堂があります。
 別所温泉は古から七久里(ななくり)の湯と呼ばれてきましたが、「七苦離」に通じるということで、七つの苦難が解き離れると信じられているよし。
 向かって左の御堂に安置されている聖観世音菩薩様はたいへんお美しいです。
 私たちが訪れたのは平成30年4月11日午前11時ちょっと過ぎ、満開に近い桜が御堂によく映えていました。


■将軍塚(平維茂塚)
将軍塚(平維茂塚) 地蔵堂の斜向かい、観光バス駐車場の向かい側、別所温泉駅から一番近い史跡。つまり、駅の方へ戻ってきたわけです。
 案内板によると、「塚は古墳時代後期に築造された周囲十米余、高さ三米余の円墳で当地方の有力な豪族の墓である。また別に維茂塚とも言う。
冷泉天皇の御世の安和2年(969年平安時代)信州戸隠山に「紅葉」と名乗る鬼女が住み、妖術を使って近隣を荒らし住民を苦しめていたのでこれを平定するため詔を奉じて北向観音に参籠祈願ののち首尾よく鬼女を討ち滅ぼした余吾将軍平維茂の塚と伝えられている。」
とあります。
 補足すれば、平維茂(たいらのこれもち)は、将門の乱を平定して名を馳せた平貞盛の甥ですが、養子となり、「子としては15番目だったことから、余五(十を超えた余りの五)君、また後に将軍となったと伝えられることから余五将軍と言われる」(ウィキペデイア)ということで、「将軍塚」と伝承されているようです。


■別所温泉から善光寺へ
 別所温泉ともお別れです。3ページにわたって綴ってきましたが、別所温泉にはもちろんこのほかにもたくさん見所があります。が、今回私たちが巡れたのはこの辺までです。たいへん魅力に富んだ、地味ですが、好感の持てる素敵な温泉地でした。

真田三代の郷コラボ自販機上田電鉄別所線の駅キャラ

 信濃追分〜軽井沢〜別所温泉と廻ってきた旅は、このあと最後の目的地善光寺へと向かいます。


平成30年4月信州紀行〈完結編〉
善光寺参りとその文学碑めぐりへつづく

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