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西向の山/文学散歩 信州上田・別所温泉の文学碑
〔1〕/〔2〕北向観音の白秋歌碑、芭蕉句碑、花柳章太郎碑/〔3〕


■温泉薬師瑠璃殿と石碑群
懸造りの温泉薬師瑠璃殿 北向観音の本堂から愛染カツラの木を背に少し西側へ行くと、けっこう切り立った崖を背に温泉薬師を祀った瑠璃殿があります。
天台宗別格本山 北向観音・常楽寺』の公式サイトによると、
「寛保二年(1741)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保四年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化六年(1809)に湯本講中の積立金により再建されました。」
 ということですが、ご覧の通り、崖に張り出して造られた見事な木造の懸造(かけづくり)建築が透かし見られます。
 その瑠璃殿の足元に石碑がたくさん建てられています。ここ北向観音には古くから多くの文人墨客が訪れていたという証左といえますね。

歩く白猫の区切りマーク
温泉薬師瑠璃殿と石碑群

■北原白秋「春駒」の歌碑
 そのなかでも正面の中央にでーんと建っているのが北原白秋の歌碑です。白秋没後20年の昭和37年に建てられたもので、白秋肖像のレリーフも嵌め込まれています。
 白秋長男の北原隆太郎氏作成の年譜(『日本の詩歌 9 北原白秋』昭和43年2月・中央公論社刊)によると、「大正十二年 一九二三年 三十九歳
この年、信州大屋の農民美術研究所開所式後、妻子と別所温泉、碓氷嶺に遊び、
……」とあります。
 この時の妻は、かの元隣家の人妻で一緒に未決監に留置された背が高く日本人ばなれした美貌の松下俊子でも、二番目の歌人で詩文集もあったが最期は悲惨な死を遂げた江口章子(あやこ)でもなく、三番目の唯一見合いで結婚し最期まで添い遂げた妻・佐藤菊子です。長男隆太郎氏が満一歳を過ぎたころのことで、家庭的にようやく安定してきた時期です。

観音の この大前に 奉る 絵馬は信濃の 春風の駒

北原白秋歌碑「観音のこの大前に奉る絵馬は信濃の春風の駒」

■旅の歌集『海坂』
 この歌は、白秋没後6年半の昭和24年6月に刊行された歌集『海阪(うなさか)』に収められています。歌集『海阪』は、白秋亡きあと木俣修氏が編集したものですが、生前にまとめる意志があり、作品の制作年代的には白秋の第五歌集という位置づけがなされています。大正12年3月から昭和2年6月までに発表された作品のうち、旅の歌を集成したもの。版元は実弟・北原鉄雄が経営するアルス。
「七久里の蕗」の項に、
「四月中旬、妻子を率て、信州別所温泉、古名七久里の湯に遊ぶ。滞在数日。宿所たる柏屋本店は北向観音堂に隣接す。楼上より築地見え、境内見ゆ。遠くまた一望の平野みゆ。幽寂にしてよし。」
 とあります。現在、歌集『海阪』は青空文庫で全編読めます。この「滞在数日」のうちに、「北向観世音の絵馬を観て詠める歌七十五首」をはじめ、『海阪』に収録されているものだけでも(私の数え間違えでなければ)161首も詠んでいるのでした。


■北向観音の芭蕉句碑
 松尾芭蕉は日本のあちこちを旅し、その句碑は全国至る所にありますが、この句碑に刻まれた句をこちらで詠んだということではないようです。
松尾芭蕉句碑「観音のいらか見やりつはなの雲」(参照:同じ信州の「旧軽井沢の芭蕉句碑」/「追分宿浅間神社の芭蕉句碑」) 
 この碑は、安永3年(1774)に建立されたもので、揮毫は門人四千人といわれる加舎白雄(かや・しらお/元文3年1738-寛政3年1791)
 俳人・加舎白雄は、地元・信濃国上田藩の江戸詰め藩士加舎忠兵衛吉亨の次男で、江戸深川の生まれ。天明8年(1788)に芭蕉百回忌句会を催しています。

観音の いらか見やりつ はなの雲

 この句は、芭蕉43歳の貞亨3年(1686)、江戸深川の草庵で寝ころびながら詠まれたとも、病に伏せて床の中で詠んだ句とも伝えられています。したがって、「観音のいらか」とは本来は北向観音のことではなく、浅草観音(浅草寺)の大屋根(現在はチタン製の瓦)のことです。「はなの雲」はその高く聳えるいらかと競うように空に広がる満開の桜を現わしているのでしょう。
 芭蕉の『更科紀行』はその翌々年の貞亨5年からで、8月に善光寺からの帰途、坂本宿から追分宿に至る間に、上田宿も通過しています。だからまるで縁がないというわけではありません。


■花柳章太郎供養碑
 白秋歌碑の右手奥、瑠璃殿向かって右側に、斜に構えるような感じで花柳章太郎氏の供養碑が建っています。
花柳章太郎供養碑 花柳章太郎といわれても、私などは名前しか知りませんが、戦前から戦後、昭和40年に急死するまで活躍した新派を代表する女形です。「賞太郎」といわれるほどたくさんの賞を受賞した人間国宝。
 平成21年当時に設置されていた案内板の写真を見たら、
「当山に健康祈願し
舞台に専念出来た」

 とありました。役者にとっては職業病である白粉中毒に悩まされていたそうです。なにしろ美貌が売りでしたので。別所温泉の温泉薬師に祈願し、湯治したわけですね。

北向にかんのん在す 志ぐれかな

 俳句もよくし、女形の肖像レリーフの脇に、こんな句も添えられています。これも白秋歌碑と同じ昭和37年の建立で、発起人代表のひとりに川口松太郎の名が刻まれています。
 北向観音ゆかりの『愛染カツラ』の作者である川口松太郎とは親しい交流があり、急死する二日前に出ていた舞台の夜の部(つまり最期の舞台)は、川口松太郎作の『寒菊寒牡丹』でした。今際の際まで舞台のことを案じていたということです。

区切りマーク

■北向観音境内の石碑群
 温泉薬師瑠璃殿の足元手前、左手前から芭蕉句碑、白秋歌碑、右奥に花柳章太郎供養碑、ほかにも大小さまざまな石碑が建っています。一つひとつ確認できませんでしたが、もう一つ有名なものに、中村雨紅作詞・草川信作曲「夕焼小焼」の歌碑があります。実は後から知ったので、写真に撮ってこられませんでした。これも昭和37年の建立で、この年に新しい石碑がまとめて整備されたようです。おそらく芭蕉句碑はその際にいい按排の位置に移設されたのでしょう。

北向観音の石碑群
(初出:令和3年7月4日/7月9日短説[tansetsu]ブログ」と並行して制作のうえ増補・再構成)

信州上田・別所温泉の文学碑
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