〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 | 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 | 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑 |
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 | 〔14〕油屋旅館・文化磁場油や〜“郵便函” | 〔15〕行在所〜高札場〜諏訪神社〜道造像 |
〔16〕泉洞寺〜樹下石仏・泡雲幻夢童女の墓 | 〔17〕桝形茶屋〜分去れの常夜燈・石碑群 | 〔18〕庚申塚・ホームズ像〜吉野太夫〜跋 |
追分宿郷土館への入口西側、御影用水を渡った所に浅間神社があります。信濃追分駅から停車場道〜うとう坂を歩いてきた場合は、順路的には浅間神社の方が手前になります。
浅間神社
浅間信仰の神社は全国に1,300ほどもあるとされ、その読みは「あさま」と「せんげん」の二通りがありますが、信濃追分の浅間神社は「あさま」です。ここは石尊山や浅間山への登り口に当たり、浅間大神を遥拝する山岳信仰の神社です。
多くの浅間神社は、山中に祀られる山宮と、麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られるのですが、こちらは当然里宮です。大山祇神と磐長姫神の二神が祀られています。
本殿は流造で、室町時代初期の応永(1394〜1427年)様式をよく残しているそうです。軽井沢町最古の建築物。内部には寛永4年と天明3年の改修札が残っているとのこと。幕末から明治にかけて浅間山の鳴動が激しくなり、鎮静祈願のため明治2年(1869)9月、明治天皇の勅祭が行なわれました。
境内には追分節発祥の地碑や芭蕉句碑があります。ほかに子供用の遊具なんかもあり、境内がそのまま追分公園になっていて、「信濃(最近は「しなの」と表記)追分馬子唄道中」のメイン会場でもあります。
境内にある油屋が寄進した常夜燈と「御嶽山座王大権現」の碑。左はかがんで接近したアップ、右は引いた状態の写真ですから、両者の見かけの比率がおかしいです。常夜燈はミニサイズで台座を含めても1.2メートルほど、大権現の石碑は5メートルはあろうかという巨大なものです。
追分節発祥の地碑
これはもう実物の写真と案内板に語ってもらいましょう。石碑の写真は平成19年7月9日に携帯電話のカメラで撮ったものです。夏の風景です。
「追分」というのは道が二つに分かれる場所のことで、語源的には「牛馬を追い、分ける場所」です。となるとどこにでもあるわけですが、特に街道などの幹線道の分岐点を意味するようになりました。それでも当然のことながら全国至る所にあります。ですので、「追分節」もいろいろ形を変えながら諸国に伝わっていますが、ある一定の基本的な様式があり、その主流となった三下り調(馬子唄調・座敷唄調)の源流がここ信州中山道と北国街道の分岐点である追分宿で生まれた追分節だということです。
追分馬子唄
各節の最後に(ハイーハイー)という掛け声が入る ・追分桝形の エー茶屋でヨー ホロと鳴いたが アリャ忘らりょか |
これはやはり実際の歌を聞いてもらった方がいいのですが、その歌唱法は朗々と声を響かせて歌うというもので、哀調を帯びています。
「音楽的特徴として、
○はっきりした・明確な拍節を持っていない(調子よくパンパンと手拍子を打てない)
○音域が広い(高い声から低い声まで出さなければいけない歌が多い)
○母音を伸ばす(一音多声型。歌詞等の一文字を長く伸ばす場合が多い。西洋音楽のメリスマ参照)
などが挙げられる。この為、難しい方に入る」(引用:「ウィキペデイア」)
佐久の結社「春秋庵社中」により、寛政5年(1793)8月に建立されました。旧軽井沢のつるや旅館の少し先にある「馬をさへ
ながむる雪の あした哉」の句碑よりちょうど50年前のもので、ということは松尾芭蕉〈寛永21年(1644)〜元禄7年(1694)〉の百回忌に建立されたわけですね。(→旧軽井沢の芭蕉句碑)
石碑の句は、『更科紀行』の中の一句ですが、なぜか万葉仮名風に漢字のみで刻まれています。なぜなのか、ちょっと調べただけでは分かりませんでした(要検証)。自然石をそのまま活かした表面に、ダイナミックな筆致の文字で彫られています。
この写真も平成19年7月9日のものですが、うしろの舞台の横断幕に「祝 信濃追分馬子唄道中」とあるのが見えます。毎年7月の第4日曜日に開催される軽井沢町でも最大規模のお祭りで、平成30年7月22日で第33回目を迎えます。只今「役者」を募集中とのことです。(→「軽井沢 追分区 公式サイト」※公式の案内とお祭りやイベントの動画も見られ、「追分馬子唄」も聞くことができます)
芭蕉の『更科紀行』
芭蕉は貞享4年(1687年)8月14日から、弟子の河合曾良と宗波を伴って『鹿島詣』に行きました。同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発。東海道を下り、鳴海、熱田、伊良湖崎、名古屋などを経て、年末には伊賀上野入り。その後、吉野、大和、紀伊を巡り、さらに大坂、須磨、明石を旅して京都に入ります。
翌貞享5年5月に再び旅装を整えた芭蕉は、大津、岐阜、名古屋、鳴海を旅します。
しばらく名古屋で休んだ後、「さらしなの里、おばすて(姨捨)山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。」(『更科紀行』冒頭)と、信州更科の里や姨捨山の月を見ようと、ともに風狂の人・越人を友に、8月11日に美濃国鵜沼宿を旅立ちます。下僕を従えた馬上の旅でした。
『更科紀行』では木曽からいきなり更科に入り、その間がすっ飛ばされています。また肝心の姨捨山の月のことに言及されていません。がともかく、善光寺詣でを果たした後、8月下旬に江戸へ戻りました。
時に芭蕉45歳。三島由紀夫が自決した齢ですが、もちろん年齢の感覚は現代とは異なり、もう老境に入ったと言っていい年齢の頃でした。
この善光寺からの帰途、8月18日に坂木宿を出発し、北国街道を東進、鼠宿、難所の岩鼻を越え、上田宿、信濃国分寺を経て、海野宿を通過、川沿いに進み、田中宿、浅間山を左手前方に見ながら、小諸宿、千曲川から離れ、浅間山麓を進み、その日の夕方に追分宿に到着しています。
追分宿からは中山道で沓掛(今の中軽井沢)、軽井沢、碓氷峠を越えて、安中、深谷、大宮を経て、江戸深川のいわゆる「芭蕉庵」に帰着。
芭蕉が弟子の曾良を伴いかの有名な『おくのほそ道』の旅に出るのはその翌年、西行の五百回忌に当たる元禄2年(1689)3月27日のことでした。(日付はいずれも陰暦)
(出典・参照:「更科紀行 旅程 美濃〜更科〜江戸」〈『俳諧サイト』〉)
芭蕉翁 帰支飛寿石裳浅間能野分哉 春秋庵社中 佐久連 |
(原文)吹とばす石ハ浅間の野分哉 (原文の現代風表記)吹飛ばす 石は浅間の 野分かな |
江戸深川の芭蕉庵があった所(芭蕉稲荷神社)と近くの江東区芭蕉記念館には、明大リバティアカデミー小川和佑講座のフィールドワークで平成19年11月2日に訪れています。それももう10年以上前になるのですね。