〔1〕序〜新軽〜矢ヶ崎大橋〜りんどう文庫 | 〔2〕ささやきの小径〜旧サナトリウム | 〔3〕旧軽銀座〜観光会館〜神宮寺の桜 |
〔4〕近藤長屋〜つるや旅館〜ショー礼拝堂 | 〔5〕二手橋〜犀星文学碑〜白鳥文学碑 | 〔6〕水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会 |
〔7〕テニスコート〜万平ホテル〜三笠ホテル | 〔8〕碓氷峠見晴台〜万葉歌碑〜御風歌碑 | 〔9〕熊野皇大神社〜吾妻はや〜アリスの丘 |
近藤長屋
ちょうど一年前の平成15年末限りで、ついに取り壊されてしまいました。今回訪れた10月17日はすなわち解体直前だったわけです。最後まで営業を続けているお店も11月までに退去しなければいけないということで、まさに見納めの最後のチャンスでした。
避暑地ならではの軽井沢名物である夏季のみの出張店は、最初はもっぱら外国人御用達でありましたが、大正5年(1916)に名古屋の豪商・近藤友右衛門という人が建てたこの「近藤長屋」こそ、日本人向けのそれの嚆矢でした。(もっとも日本人向けといっても、軽井沢なんぞに避暑に来られる元皇族や華族などの貴族階級、政治家、財界人、文化人など一部の富裕層や作家、芸術家などに限られますが)。
避暑地として初期の軽井沢は日本語よりも横文字の看板の方が多く、江戸時代の宿場の機能がすっかり衰退しさびれた田舎町に、突如として西洋の風物が移植され「超」がつくほどハイカラな街になったわけですが、この近藤長屋は旧中山道の宿場のイメージを保っています。(いや、今でこそ古くなってそう見えているだけで、出来た当時は十分近代的な建物だったのかもしれませんが)。
そもそも「軽井沢銀座」の名の起こりも、ここに銀座の老舗が軒を連ねたからだといいます。つまり、日本全国どこにでもある「○○銀座」とは起源が違うのでした。その町一番の目抜き通りで「銀座みたい」な繁華街だからではなく、銀座そのものがそのまま来てしまったからなのでした。
ちもと/シブレット(渡辺商店)
近年の近藤長屋は、銀座の老舗というより、旧宿場のイメージに似つかわしい純和風の甘味処や民芸品店などが入っています。
なかでも有名なのは上の写真に見える「ちもと」で、名物の「ちもと餅」は黒砂糖が入った求肥に胡桃を絡めたものです。江戸時代に茶道で供されたお菓子を再現したものです。
また、写真右手前にかき氷の旗が見えますが、ここのかき氷は美味しいはずです。というのは、池や湖で採取する天然の氷を扱っている蔵元は日本に7軒しかないそうですが、そのうちの1軒が軽井沢の渡辺商店で、毎朝その日の分のみを碓氷峠から運んできて卸しているということです。
なお、旧近藤長屋の向かい側にある軽井沢ショッピングアレイの1階に、渡辺商店直営の「シブレット」という喫茶店があります。天然氷の蔵元直営の店でかき氷が食べられるのは日本で4軒だけだそうです。「ちもと」は50mほど手前に移転し今も営業しています。
現在は軽井沢クリークガーデン
この近藤長屋について最も詳しいと思われる記事として、私たちが小川和佑先生の公開大学フィールドワークで訪れた平成15年10月17日とほぼ同じ頃に書かれた随筆を発見しました。誰あろう、軽井沢ファンなら知らない人はいないでしょう、軽井沢の数ある情報誌で最も信頼できかつ充実した『軽井沢ヴィネット』の編集長(のちに『軽井沢新聞』の編集長も務める)の広川小夜子さんが母校の同窓会通信に配信した記事です(広川小夜子『軽井沢便り第3回』新潟市立白新中学校同窓会通信:平成15年10月25日配信)。ぜひご参照あれ。
そしてそこがその後どうなったかというと、平成30年4月10日現在は写真の通りで、「軽井沢クリークガーデン」という結婚式場(というよりカタカナでウェディング・ホールとかブライダル・サロンとかと言った方が相応しいでしょうね)になっています。
上記広川小夜子さんの記事で、「軽井沢観光協会や軽井沢銀座商店会、商工会などが買手のブライダル産業会社に『新しく造るなら、この歴史と伝統ある雰囲気を維持できるような建物にしてほしい』との要望書を提出することが決まり、しばらくはこの行方がどうなるか目が離せないところです」とありますが、それがこうなったわけです。
五街道の一つ中山道の一番の難所であった碓氷峠を控え、天領でもあった軽井沢宿は江戸時代初頭から参勤交代で賑わっていました。しかし明治になると、廃藩置県により当然のことながら参勤交代もなくなり、すっかりさびれてしまいました。
その後避暑地としてまったく別の形で再生するわけですが、江戸初期に休泊茶屋を営む旅籠鶴屋として開業された「つるや」は、明治に入って旅館業に転じ、大正から昭和のはじめにかけては一大「文学サロン」の観を呈することになりました。
ここで夏を過ごし、執筆した作家は、ざっと挙げただけでも、島崎藤村、正宗白鳥、室生犀星、萩原朔太郎、芥川龍之介、堀辰雄、谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三、石坂洋次郎、丹羽文雄、片岡鉄兵、水車跡の上側に別荘を持った富田常雄などなど。芋蔓式に集まってきたと言っていいでしょう。文人墨客だけでなく、政財界の重鎮も定宿としていました。堀辰雄はそれらの中に入れば一番の“若手”に属すわけですが、かの矢野綾子さんとの出会いの場でもありました。
古いつるやは通りに面して総二階建、玄関口の右側の石盤に綺麗な水が流れていた。…… ――小川和佑『文壇資料 軽井澤』(昭和55年2月・講談社刊)―― |
個人的には、昭和61年の小川ゼミの最初の軽井沢合宿で、『美しい村』に「太郎ちゃん」として出てくる当主の佐藤太郎氏にお話を伺うことができたのは貴重な体験で、いい思い出として記憶に残っています。
上の写真はその時に撮ったもので、現在は正面玄関の上に道路近くまでせり出した屋根が増築されています。
と書いたのは平成16年ですが、その14年後の写真が左です。この間はあまり変わりなく、常夜燈を模した可動式の立て看板と壁面の木製看板は32年前から変わっていませんね。
それほど大きくはない旅館ですが、本館、別館、奥館の三棟があり、廊下で繋がっています。本館には意外にもツインベッドの洋室もあります。軽井沢文学のファンなら一度は泊まってみたい宿です。
先に引用した小川和佑先生の『文壇資料 軽井澤』によれば、芥川龍之介や室生犀星が作った「つるや七不思議」というのがあるとのこと。説明なしに列挙すれば以下の通り。
一、水なし池。二、夜泣き太郎。三、しょんべん滝。四、居眠り番頭。五、蠅の間。六、五角の机。七、底抜け弁当。
その芥川龍之介が木によじ登りおどけている非常に珍しいフィルム(動画!)がありますが、それがたしか、つるや旅館の中庭で撮影されたものではなかったでしょうか(要検証)。また、芥川はつるやの看板に濁点をつけていたずらしたとかしなかったとか……。
つるや旅館の先を少し行くと、右手に見えてくるのがこの芭蕉句碑。軽井沢町の説明板によると、天保14年(1843)というから、いささか唐突な対比ですが新選組の沖田総司が生まれた一年後、当地の俳人・小林玉蓮によって、芭蕉翁百五十回忌に際して建てられたものだそうです。(→追分宿浅間神社の芭蕉句碑)
馬をさへ ながむる雪の あした哉 芭蕉 |
「野ざらし紀行(甲子吟行)」中の一句 |
(軽井沢町の説明板の解釈) |
この先は二手橋を経て旧碓氷峠へ続く中山道の旧道に入ります。往時の徒歩の旅では、旅情を誘われるなどとは言っていられない険しい峠道に差し掛かります。
この辺りから夏のシーズン中でも旧軽銀座の喧騒は遠のきます。商店街だけが目当ての文学や歴史に興味のない観光客は引き返すからです。しかし、芭蕉句碑の少し先に、軽井沢にとっては絶対に外せない場所があります。
ショー師記念礼拝堂
そうです、カナダ生まれの英国聖公会宣教師アレキサンダー・クラフト・ショーさん、この人がいなければ、あるいは軽井沢に来ていなかったら、今日見られるような軽井沢はなかったといっても過言ではないでしょう。ご存知、避暑地としての軽井沢の発見者であるA.C.ショー師を記念した礼拝堂が現在も通年開放されています。
ショー師の胸像前で解説する小川和佑先生と、その「講義」に熱心に聴き入る明大リバティ・アカデミーの受講生。
アレキサンダー・クラフト・ショーは1846年(弘化3年)2月5日、当時はイギリス領であったカナダのトロント市に生まれ、明治6年(1873)英国聖公会の派遣宣教師として来日。翌年には慶應義塾の倫理学の教授に就任しています。
運命の時は明治19年(18年という説も)。布教の途上で初めて軽井沢を訪れました。故国を思わせる自然や気候に魅せられ、同じ年の夏に家族を連れて再訪し二か月滞在。この時ショーは40歳。翌年も今度は知人まで誘って十数人で訪れています。
そして明治21年(1888)、大ヶ塚山に最初の山荘を建てました。これこそが記念すべき軽井沢の別荘第一号です。
そのショー師によって創設されたこの日本聖公会の礼拝堂は、もちろん軽井沢最初の教会で、建物の原形は明治28年(1895)にできています。師の死後に「ショー記念礼拝堂」と呼ばれるようになり、大正11年(1922)までに現在のような形に整ったとのこと。
ショーハウス
小川和佑先生の『“美しい村”を求めて 新・軽井沢文学散歩』と『文壇資料 軽井澤』の記述を合成して、若干の訂正を施しまとめると以下のようになります。
カナダ出身のイギリス人宣教師アレキサンダー・クラフト・ショーが、開通したばかりの鉄道馬車で碓氷峠を越え、この古い宿場を訪れたのは明治十九年のことだった。これは偶然だろう。中部地方への布教の途次であったといわれている。このとき友人の文科大学(のちの東京帝国大学)教師のジェームズ・メイン・ディクソンも同行していた。 |
上記二著や他の資料でも年代の異同があり、正確な年代は検証の必要がありますが、下に引用した「ショーハウス記念館」のリーフレットの解説にある「外観は日本の民家風、内部の間取りは西洋風」というのは、元々は日本の民家を利用して内部を西洋風に改造したからにほかなりません。
そしてその別荘第一号は、現在「ショーハウス」として、記念礼拝堂の裏手に復元されています。
※上記小川先生の『文壇資料 軽井澤』の通り、昭和のはじめに軽井沢教会の敷地に移築されていたものを、昭和61年(1986)にショーハウス復元委員会によって現在地に再々再移築されました。
ということは、私が小川ゼミの合宿で初めてここを訪れた時は、再移築直後のオープン間もない頃だったわけですね。したがって、小川先生も少なくともこの場所でショーの山荘を見るのは初めてで、昭和53年(1978)刊行の『“美しい村”を求めて』でショーについて書かれた章で礼拝堂と一緒に言及されていないのももっともなことなのでした。
さらにその後平成8年(1996)に軽井沢町に寄贈され、以後は町の施設として公開されています。
(4月1日〜11月3日・木曜定休・7月15日〜9月15日は無休・入館料は無料)
この稿は軽井沢町教育委員会発行の「ショーハウス記念館」のリーフレットに準拠しています。間違ったことを書いてもいけないので、以下そのまま抜粋します。 |
ショーハウスは、木造2階建(建物面積延べ185u)で、外観は押縁のある日本伝統の下見板張りとなっています。内部は、1階は玄関から奥まで広い廊下があり、左右にホールなどの部屋を振り分けています。廊下の奥の方に2階への階段を設け、2階には寝室が4部屋あります。こうした間取りは、小さな洋風住宅にみられる間取りです。外観は日本の民家風、内部の間取りは西洋風というところがこの別荘の特徴です。 |
ショーは、この別荘を拠点に、布教活動をしながら、子どもたちに水泳を教えるなど、住民と積極的に交流を図り、西洋文化などを紹介しました。 |
ショー氏記念之碑
このショー氏の記念礼拝堂とショーハウスは、現在は案内板なども整備され、「避暑地軽井沢発祥の地」として、軽井沢を訪れる心ある人なら必ず立ち寄る場所になっていますが、それでもやはりこちらの「ショー氏記念之碑」は顧みられることが少ないです。
小川先生は昭和53年の『“美しい村”を求めて』でも昭和55年の『文壇資料 軽井澤』でも、当時すでに「忘れられた記念碑」として詳しく語ってくれています。実は私にしても、2003年、2007年、2018年と最近三回来ているいずれにもこの記念碑の写真を撮り忘れています。が、この度、最初のゼミ合宿で来た昭和61年の写真を掘り起こしました。それがこれです。
碑面の左上に「ショー氏記念之碑」とあり、その下の左右に、英文と漢文で銘文が刻まれています。
※なお、上記二著では英文の日付が「1905」になっていますが、これは「1903」の誤りのようです。明治の癸卯は明治36年(1903)です。ショー氏が亡くなったのは明治35年(1902)3月13日で、その翌年ということですが、実際に碑が建ったのは明治41年(1908)年だそうです。
おそらく、ショーさんの一周忌に、軽井沢にとって恩人である氏の顕彰碑を建てようと発案があり、村議会で正式に決まったのが1903年5月31日だったのでしょう。そして5年かかって実現した、ということではないでしょうか?(要検証)
To Commemorate |
尊師A・C・ショー氏を記念して 氏は夏の避暑地として、氏の信仰 一九〇五※年五月三十一日 |
氏英国名士久在本邦 |
氏、英国名士にして久しく本邦に在りて |
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