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小川和佑先生と歩く軽井沢文学散歩アルバム 〔2〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈軽井沢広域編〉

〔1〕序〜新軽〜矢ヶ崎大橋〜りんどう文庫 〔2〕ささやきの小径〜旧サナトリウム 〔3〕旧軽銀座〜観光会館〜神宮寺の桜
〔4〕近藤長屋〜つるや旅館〜ショー礼拝堂 〔5〕二手橋〜犀星文学碑〜白鳥文学碑 〔6〕水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会
〔7〕テニスコート〜万平ホテル〜三笠ホテル 〔8〕碓氷峠見晴台〜万葉歌碑〜御風歌碑 〔9〕熊野皇大神社〜吾妻はや〜アリスの丘

■堀辰雄の『美しい村』『風立ちぬ』の三度山麓へ

新渡戸通りを行く小川和佑先生講座一行(2003.10.17) 矢ヶ崎公園脇の道から、ほぼ平行して走る本通りへは戻らず、三度山方面へ別荘地内の道を右折します。小川和佑ゼミナール2003年中高年組が行くの図です。
 かつてのゼミ合宿では、本通りをとりあえず旧軽のメインストリートまで行き、水車の道から聖パウロ教会の方へ先に行ったような気もするのですが、ちゃんとこちらへも来ています。地理的にはこちらの方が新軽に近いので記憶違いでしょうか。
区切りマーク(歩く白猫)
 これを本通りから見ると(つまり、軽井沢駅の北口からまっすぐ北上した場合は)、東雲の交差点を東に新渡戸通りを行く格好になります。15年後の平成30年4月9日はこちらのルートを辿りました。

■離山を望む

本通りから望む離山(2018.4.9夕) 少し戻りますが、右の写真のように、本通りのちょうど空き地になっている隙間から離山が望めました。前ページで紹介したりんどう文庫の手前です。やがて建物ができればこのようには見えなくなりますが、昔は軽井沢のどこからでもよく見えたのでしょう。
 離山は手軽に登山できますが、それでもけっこうな秘境です。小川ゼミの合宿では一度も行ったことがありませんね。麓を巡る道は基本的には別荘用の道ですが、中軽井沢との隠れた抜け道になっていて、小川先生を乗せて自動車で通ったことはありますが。
 登山口と山頂との標高差は200メートルほどで、その形状から「テーブルマウンテン」と愛称されています。もちろん明治の頃に来た西洋人がそう呼んだのです。浅間山の側火山で、溶岩ドームで出来ています。“最新”の噴火は2018年現在で2万2千52年前のようです。

■東雲交差点から新渡戸通り

東雲五叉路(2018.4.9) さて、本通りから東雲の五叉路を右折し、新渡戸通りへ進みます。もちろんこの通りの名前は、思想家で教育者の新渡戸稲造氏の別荘があったことに因んでいます。
 左の写真では、左斜め上にあたる北西方向に行くのが鳩山通り(こちらには元首相の鳩山一郎氏の別荘がある)で、左に(切れて見えませんが)西方向へ行くのは雲場池通り。本通りをまっすぐ行けば旧軽ロータリーです。
区切りマーク(五叉路)
 因みに、雲場池の周辺も木立と水辺のハーモニーが美しく、いかにも軽井沢らしい所なのですが、小川ゼミでは最初の昭和61年の合宿で別動隊がオプションで歩いた(自転車を借りて散策した)だけで、いつも足を延ばせていません。平成30年春ヴァージョンでもやはり行けませんでしたが、現在大規模な整備工事が行われていて立ち入れないようです。
※工事期間(予定)平成29年11月13日〜平成30年4月25日「軽井沢雲場池ブログ

新渡戸通り(2018.4.9)  軽井沢型絵染美術館

 新渡戸通りの木立。一番上の写真のうしろ側から見た図になります。
 この通りの南側に軽井沢型絵染美術館があります。人間国宝の芹沢_介氏に師事し、40年以上型絵染めに打ち込んだという小林今日子氏の作品を展示している美術館。開館は7月1日〜11月3日の夏から秋にかけてのみですが、毎年テーマを変えて展示替えをしているそうです。

■ささやきの小径

 やがて交差する矢ヶ崎通りを左折し、すぐの二股を矢ヶ崎川沿いへ向かいます。そこから北上するのが誰が名付けたか「ささやきの小径」で、堀辰雄が愛したアカシアの並木に因んで「アカシアの小径」とも呼ばれ、さらには「恋人たちの小径」とも称されています。
堀辰雄『美しい村』『風立ちぬ』の舞台 ただし、堀辰雄が歩いていた頃はこれらのアカシアはまだ背丈ほどしかない若木で、現在とはだいぶ眺望が異なるはずです。おそらく、もっと明るい開放的な風景だったのではないでしょうか。と、これは小川先生の解説。
 軽井沢の「自然」は自然そのままの本当に天然の自然ではなく、人間の手で作られた自然です。もっとも日本の多くの自然は人が丹精込めて計画的に作った自然で、たいていは全くの原生林というわけではありませんが。
 そして、この小径のなかほど、川の向こう側に見えてくるのが『風立ちぬ』の“場所”の方角です。ちょうど先生が左手で指し示しているガードレールの向こう側。今では高く成長した樹林のあいだを登っていくと、急に視界が開け、愛宕山や離山が一望できる展望地に出ます。ここも光に満ち溢れた明るく開けた場所です。

■軽井沢サナトリウム/マンロー病院(旧軽井沢ヴィラ)

 この「ささやきの小径」はさらにもう一つの名前を持っています。「サナトリウムレーン」です。そうです、昔サナトリウムだった建物がある小径なのです。
 サナトリウムとは現在では結核とは限りませんが当時は主に結核専門の長期療養所で、この「軽井沢サナトリウム」は大正13年(1924)に建てられた純洋式の木造二階建ての建物でした。赤い屋根とやや赤みを帯びた小豆色の外壁に、窓や扉の木枠が白い十字架のようにも見えるたいへんモダンで瀟洒な造りです。

1986年当時の旧サナトリウム(旧軽井沢ヴィラ)

少なくとも17年前(昭和61年)までは「旧軽井沢ヴィラ」という名のペンションとして残っていました。

(注記)1と、平成15年に書きましたが、これは誤りでした。サナトリウムとしていつ閉館されたのかは不詳ですが、おそらく戦中戦後の混乱期に閉鎖され、その後神奈川県で「逗子なぎさホテル」を経営していた会社が夏の間だけホテルとして営業していたそうです。しかしこれも、昭和55年(1980)の夏を最後に営業停止しているとのこと。「旧軽井沢ヴィラ」という名称は記憶に正しかったのですが、ペンションではなく夏季限定ホテルでした。そういえば、〈森の中の小さなクラシックホテル〉という触れ込みでかつて赤い屋根の瀟洒なホテルがあったという話には記憶があります。

区切りライン

今回は紅葉に気を取られて見過ごしてしまいました。写真は昭和61年9月当時の姿。

(注記)2と書いたのも、認識違いでしたね。平成15年の時点には、見過ごしていたのではなく、すでに建物は跡形もなくなっていたようです。この写真を撮った昭和61年当時もすでに営業を停止してから6年も経過していて、建物だけが放置されていたようです。たしかにこの写真、よくよく見ればまだシーズン中なのに内部は暗く、すでに閉ざされている雰囲気で一部は朽ちかけていますものね。

区切りライン

 この「軽井沢サナトリウム」には俗称としてもう一つ別の呼び名がありました。大正末から昭和の初期の頃はむしろ「マンロー病院」と言う方が通りが良かったのかも知れません。ニール・ゴードン・マンローという英吉利人(イギリス人と書くよりこの方がしっくりきます)の医師が初代の医院長を務めていたからです。
 堀辰雄の『美しい村』に出てくる「レエノルズ博士」のモデルです。マンロー博士は日本の考古学の先駆者でもあり、アイヌ研究の第一人者で、のちに北海道に移っていますが日本でその生涯のほとんどを過ごしたそうです。堀辰雄の『美しい村』にも何やら気難しそうな人物として描かれていますが、いい意味でも悪い意味でも“相当な”人物だったらしく、桑原千代子さんという方のたいへんな労作に『わがマンロー伝』(昭和58年・新宿書房刊)という本があるとのことです。
(注記)3実はこの度、「And Your Bird Can Sing 〜そして、キミの小鳥は唄うんだってね〜」というそのタイトルだけでも気になるブログを発見し、このブログもMaさんとChiさんの「MC小鳥」コンビで作成しているようですが、その方は旧軽井沢ヴィラに泊まったことがあるとのことで、その記事に「軽井沢サナトリウム、そして旧軽井沢ヴィラ」(2009.10.12)、「『美しい村』のレエノルズ先生と、マンロー先生と堀辰雄」(同10.14)、「今はなき『軽井沢ヴィラ』の記憶」(同10.18)、「マンロー先生の伝記 〜桑原千代子著『わがマンロー伝』〜」(2010.4.20)などがあり、興味のある方はぜひご参照されたし。
 ところが、たいへん残念なことに、この記事を書いて三か月と経っていない平成30年7月8日に確認したら、上記ブログは休止中ということでアクセスできなくなっていました。貴重な文献だったのですが……。

区切りライン

 木の間から赤い屋根の洋館が見え隠れする風景。そしてアカシアの並木。そんな景色を矢野綾子は愛し、というより堀辰雄が示唆し、画布を広げにしばしば訪れたといいます。もちろんその傍らには、いつも堀辰雄が……。
 いや、このあたりのことは、私が駄文を書くまでもありません。『美しい村』の原本を読んでください。インターネットでも読めます。→堀辰雄『美しい村』(青空文庫)
 小川和佑先生の『堀辰雄 その愛と死』(昭和59年1月旺文社文庫)には、地図や図版を交えて詳しく解説されています。以下の引用は、万平ホテルの広告にも使われている有名な個所。 

 或る日のこと、私は自分の「美しい村」のノオトとして惡戲半分に色鉛筆でもつて丹念に描いた、その村の手製の地圖を、彼女の前に擴げながら、その地圖の上に萬年筆で、まるで瑞西あたりの田舎にでもありそうな、小さな橋だの、ヴイラだの、落葉松の林だのを印しつけながら、彼女のために、私の知つてゐるだけの、繪になりさうな場所を教へた。

――堀辰雄『美しい村』「夏」――

昭和8年5月、季刊「四季」を創刊し、6月に軽井沢入り。9月まで滞在。堀辰雄満28歳の夏。

軽井沢の紅葉(2003.10.17)

思えば、10月の軽井沢は初めて。紅葉が綺麗でした。

■堀辰雄1412番山荘

 このサナトリウムレーンを北上すると斜めに交差する万平通りに突き当たります。東北の方に進めば言わずと知れた万平ホテルに着きますが、サナトリウムレーンを右折して、またすぐの所を右折し南東の方に戻る感じに延びているのが、現在では「堀辰雄の径」とも「フーガの径」とも呼ばれている道です。この辺りは「釜の沢」と呼ばれています。
 ここには堀辰雄の『雉子日記』に出てくる「独逸人の経営しているパンション」=「ハウス・ゾンネンシャイン(Haus Sonnenschein)」や、『美しい村』で「誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た」という「チェッコスロヴァキア公使館」があり、その少し南の1412番に、堀辰雄の四番目の別荘がありました。昭和16年(1941)にアメリカ人のスミスさんから買ったものだそうですが、アメリカ人には日本は住みにくい時代に突入していました(住みにくいというより、もう住めなかった?)。
 この山荘は昭和60年(1985)に塩沢湖畔の「軽井沢高原文庫」に移築保存され、内部を見学することができます。石垣の暖炉は燃え付きがよかったそうです。軽井沢高原文庫についてはまた別に一頁を費やしたいと思いますので、ここではその外観のみを。写真は平成19年(2007)7月9日に撮ったものです。

堀辰雄1412番山荘(軽井沢高原文庫内)

 実を言うと、小川ゼミの合宿でも2003年のリバティ・アカデミーのフィールドワークでもこの辺りまでは足を延ばしていません。ささやきの小径(サナトリウムレーン)から万平通りに出たら、そのまま東北に進み、万平ホテルを経由し、軽井沢会のテニスコートの方から旧軽銀座の真ん中あたりに出た方がルート上よいのですが、このホームページ版「文学散歩」ではいったん旧軽ロータリーに出て、そこから旧軽井沢の本町通り(いわゆる「軽井沢銀座」と俗称されるメインストリート)を次に巡ります。


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