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小川和佑先生と歩く軽井沢 〔6〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈軽井沢広域編〉

〔1〕序〜新軽〜矢ヶ崎大橋〜りんどう文庫 〔2〕ささやきの小径〜旧サナトリウム 〔3〕旧軽銀座〜観光会館〜神宮寺の桜
〔4〕近藤長屋〜つるや旅館〜ショー礼拝堂 〔5〕二手橋〜犀星文学碑〜白鳥文学碑 〔6〕水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会
〔7〕テニスコート〜万平ホテル〜三笠ホテル 〔8〕碓氷峠見晴台〜万葉歌碑〜御風歌碑 〔9〕熊野皇大神社〜吾妻はや〜アリスの丘

■水車の道

 旧軽井沢地区では最奥になる正宗白鳥の黒御影石の十字架詩碑は、前述の通り小川ゼミの合宿でもリバティ・アカデミーのフィールドワークでも行けませんでしたが、必見の価値があります。ぜひ見ておきたいものです。その際、自分の足で登ってこそ、感銘深いというものです。
作兵衛水車跡(昭和61年9月撮影) しかし、そこまで行くと別荘もまばらになり、あとは旧碓氷峠への山道があるばかりですので、室生犀星の詩碑から二手橋へ戻り、さらに旧軽銀座方面へ引き返します。
 そして、つるや旅館の手前(北側)を右折する(西側へ曲がる)と、旧軽銀座を迂回する形でほぼ平行に走る道に出ます。この小径が”Water Wheel Road”(水車の道)です。
 といっても、今は水車はありません。今どころか、少なくとも20年以前(平成30年現在からすれば30数年以前)からありません。いやもっとずっと前、昭和の初め頃までは水車は廻っていたとのことですが、戦中から戦後すぐくらいになくなっていたのかもしれなせん。

 写真の真ん中やや右側、藪に隠れ暗くなった辺りから一段低くなっていて、そこで廻っていたそうです。こんな所まで案内してくれるのも小川和佑先生ならではです。

 つるやの水車の前に細い小径がある。そこから道は左手の、深い森の中へ緩い上り勾配になっている。
 矢ヶ崎川から曳いた水はこの古い水車をゆっくりきしませながら廻している。この水車はつるやがまだ升型の茶屋だった時代に名物の「しっぽくそば」や「うどん」の粉を挽く水車だった。つるやの当主は代々「仲右衛門」を世襲し、隠居すると「作兵衛」を名乗って水車小屋を隠居所にした。水車は「作兵衛水車」と呼ばれていたが、大正の中頃からはそういう呼び名も忘れられていった。
 それでも昭和の初め頃までは水車は廻り、つるやの名物のそばの粉を挽いていた。いま、その水車の跡の向うには藪が拡がり、若葉が初夏の日射しにきらめいている。洋風の町の裏側にここだけは、旧い日本の田舎がひっそりと生き続けていた。辰雄はこの水車のある小径を歩くことが好きだった。

――小川和佑『堀辰雄 その愛と死』(昭和59年1月・旺文社文庫)
「W 絵のなかの少女」――

■片山廣子(村松みね子)別荘

片山広子別荘(昭和61年9月撮影) この水車跡近くに、芥川龍之介の秘めたる恋の相手、かの「越し人」と目される歌人・片山廣子(広子)の別荘があります。ここから聖パウロ教会方面とは逆に行くと、西洋人たちが”Organ Rocks”と呼んだ天狗岩が見える愛宕山への散歩道になります。堀辰雄がよく通ったコースです。

 片山廣子は、外交官(明治初期のです)の娘として麻布に生まれ、のちに日本銀行の理事となる片山貞次郎氏に嫁すという、生粋の上流階級に生まれ育った女性です。女子教育の学校では独特のステイタスがある東洋英和女学校を卒業しています。
 佐佐木信綱に師事して歌人として活動しますが、それにとどまらず、女流文芸誌『火の鳥』を主宰したり、豊かな学殖に才能もあり、加えて美貌と気品を兼ね備えた文句なしの貴婦人でした。室生犀星と同じく馬込文士村の住人でもありました。
 アイルランド文学の翻訳家でエッセイストでもある村松みね子としての名の方が通りがいいかもしれません。ジョン・ミリントン・シング、レディー・グレゴリー、W・B・イェーツなどの翻訳で知られています。

■越し人

     三十七 越し人

 彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠の
   何かは道に落ちざらん
   わが名はいかで惜しむべき
   惜しむは君が名のみとよ。

――芥川龍之介「或阿呆の一生」(青空文庫)――

 右の文中にある抒情詩「越し人」とは、大正十五年二月、「明星」に発表された「越し人」と題する二十五首の旋頭歌である。
 芥川はこの抒情詩を書くに当って、万葉集の中でも例外的なアルカイックな詩型を用いている。そこにも芥川の趣味性、あるいは高踏的な気質といったものがうかがわれる。

  あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも、
  み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ。

  むらぎものわがこころ知る人の恋も、
  み雪ふる越路のひとはわがこころ知る。

  現し身を歎けるふみの稀になりつつ、
  み雪ふる越路のひとも老いむとすあはれ。

 こうして見ると「み雪ふる越路のひと……」をリフレインにした、三連六行の抒情詩とも読める。と題する二十五首の旋頭歌である。
 芥川はこの抒情詩を書くに当って、万葉集の中でも例外的なアルカイックな詩型を用いている。そこにも芥川の趣味性、あるいは高踏的な気質といったものがうかがわれる。

――小川和佑『文壇資料 軽井澤』(昭和55年2月・講談社刊)
「V 物語の女――芥川龍之介」――

 芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日生まれ、片山廣子は明治11年(1878)2月10日生まれ、すなわち14歳年上でありました。
 その子に達吉と総子の兄妹があり、達吉(筆名:吉村鉄太郎)もまた、川端康成、堀辰雄、神西清らと「文學」の創刊に参加した文芸評論家で、総子(筆名:宗瑛)もそのころ創作に手を染めていました。
 芥川はさらに三章からなる「相聞」を詠みます。ここで全文を引用したいところですが、原文は別個に当たってください。『文壇資料 軽井澤』にはちゃんと引用されています。実は、芥川には何人かの(複数いたとされます)不倫相手がいましたが、「相聞」に詠まれた「君」は片山廣子に間違いないでしょう。ただし二人は全くのプラトニックでした。しかし、誰よりも深い愛着があったものと思われます。
 なお、廣子の側は、大正9年に夫が亡くなっていますので、軽井沢で芥川と交流があった頃は、いわゆる未亡人でした。芥川32歳、廣子46歳前後でした。

■物語の女

 けふ片山さんと「つるや」主人と追分へ行つた非常に落ついた村だつた、北国街道と東山道との分れる処へ来たら美しい虹が出た
廿日か廿一日頃かへるつもり

     十九日                    龍之介
  室生君

――芥川龍之介書簡(大正13年8月19日)――

 この、信濃追分の「分去れ」で廣子と二人で(「つるや」の主人もいたわけですが)虹を見たあたりから、おそらく芥川の心は急傾斜していったのではないでしょうか。このロマンスについて詳しく書き出したら大変なことになりますのでこの辺にしておきます。知りたい方は、小川先生の『文壇資料 軽井澤』の「V 物語の女――芥川龍之介」の章と、『堀辰雄 その愛と死』の「間奏曲その1 あひ見ざりせば…… ―芥川龍之介の恋」「間奏曲その2 『聖家族』まで―芥川龍之介の死」をお読みください。

区切りマーク(歩く白猫)

 翌年(大正14年)の夏には、二人に加えて堀辰雄が同道します。前年の、二人が虹を見た場面に堀辰雄が立ち会っていたわけではありません。芥川の死後、その全集の編集に携わった堀は、この犀星への書簡を生で見たのでありましょう。犀星からの手紙への返信の末尾に追記されたさりげない、ほんの一行ほどの文。さりげなさを装っていますが、しかしどうしても書き添えておきたかったのではないでしょうか。
 堀辰雄はそれを見逃さず、後年『物語の女』で小説的に描いています。それについては本「軽井沢文学散歩」の信濃追分編の分去れの章で再説するつもりですが、軽井沢文学の一頂点ではないでしょうか。この『物語の女』は、その舞台である信濃追分の山荘で昭和9年9月に書かれましたが、のちに『楡の家』の第一部になりました。
 これらはあくまでも小説(創作)ですが、堀辰雄の出世作『聖家族』の「細木夫人」は片山廣子、「絹子」は娘の総子、「九鬼」は芥川龍之介、「河野扁理」は堀辰雄自身、そして唯一の長編と言える(これ単体では長さ的には中編ですが、『楡の家』と併せて)代表作の『菜穂子』の「三村夫人」が廣子、「有名な作家の森於菟彦」は芥川、主人公の「黒川(旧姓三村)菜穂子」は総子、「都築明」は立原道造(を彷彿とさせますが、堀辰雄自身も投影)がモデル(というのかインスパイアされた人物)であります。とまあ、これは有名な話ですね。

■聖パウロカトリック教会

 そして、水車の道のメインは何といってもかの有名な聖パウロ教会です。昭和10年(1935)にイギリス人司祭ウォード神父によって設立されました。一般には「聖パウロ教会」、より正確には「聖パウロカトリック教会」と呼ばれていますが、所属するカトリック横浜教区における呼称は単に「軽井沢カトリック教会」です。正式には「カトリック横浜教区軽井沢教会」というべきなのかもしれません。

1986年の聖パウロ教会  (残念! 「木の十字架」がよく写っていません)

 設計はアメリカ建築学会賞を受賞した巨匠アントニン・レイモンド(レーモンド)が担当。大きな尖塔に、急傾斜の三角屋根とその下に対照的になだらかに広がる庇がまず目につき、チェコスロバキアの伝統的な教会を模しながらも、随所にレイモンドの創意が施されているとのことです。特徴的なのがコンクリート打ち放しの壁と、内部も丸太の梁がむき出しになっていて、エックス型のトラス構造になっています。椅子も丸太です。

 上左の写真、手前左から二人目、紫っぽい服を着て振り向いているのが、23歳の若き日の私です。(とすると、この写真は誰が撮ったんでしょう?)。たまたま写っている女の子の髪形や服装がいかにも1980年代の中頃という感じで、今見ると懐かしくもあり笑えてもきます。

2003年の聖パウロ教会(十字架がきれいに撮れました)  向かって左側面から(銅葺きの屋根)

 昭和53年(1978)に本格的な修復工事がなされ、小川先生の『文壇資料 軽井澤』によれば、
「カルロス・マルティネズ司祭の細心の心くばりが、この聖堂を建立当時のチェコの建築家レイモンドの設計通りに復元した。屋根が火災防止のためにあの板葺、――そんな姿を建築家の詩人立原道造はひどく愛していた。……から銅葺に変ったが、金属の堅さを塗料がうまくカバーして、司祭が一番案じていた問題は解決していた」
 というように、屋根が板葺きから銅葺きへ変更されていますが、イメージは保たれたようです。

 ここで語られているカルロス・マルティネズ司祭は、コロンビア出身のフランシスコ会の神父さんで、2016年の復活祭までといいますから相当長きにわたって日本に在住され、2017年に母国コロンビアで逝去されたそうです。2018年現在の主任司祭は、横浜教区の高野哲夫神父さんです。

小川和佑先生の野外講義(2003.10.17)  外壁のランプ

 この教会を堀辰雄はどのように描いたかを解説する小川和佑先生。昼食の時間も忘れ歩き回り、やっとここまで辿り着きました。平成15年10月17日、明大リバティ・アカデミー公開講座、秋のフィールドワークの一コマ。
 この同じ年の一ト月前の9月に、聖パウロ教会は「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定されています。同じくアントニン・レーモンドの設計では、高崎市の群馬音楽センター、杉並区の東京女子大学、軽井沢新スタジオ、名古屋市の南山大学が選ばれています。

 その教会といふのは、――信州軽井沢にある、聖パウロ・カトリック教会。いまから五年前(一九三五年)に、チェッコスロヴァキアの建築家アントニン・レイモンド氏が設計して建立したもの。簡素な木造の、何処か瑞西の寒村にでもありさうな、朴訥な美しさに富んだ、何ともいえず好い感じのする建物である。カトリック建築の様式といふものを私はよく知らないけれども、その特色らしく、屋根などの線といふ線がそれぞれに鋭い角をなして天を目ざしてゐる。それらが一つになつていかにもすつきりとした印象を建物全体に与えてゐるのでもあらうか。――町の裏側の、水車のある道に沿ふて、その聖パウロ教会は立つてゐる。小さな落葉松林からまつばやしを背負いながら、夕日なんぞに赫かがやいてゐる木の十字架が、町の方からその水車の道へはいりかけると、すぐ、五六軒の、ごみごみした、薄汚ない民家の間から見えてくるのも、いかにも村の教会らしく、その感じもいいのである。

――堀辰雄『木の十字架』(青空文庫)――



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