〔1〕序〜新軽〜矢ヶ崎大橋〜りんどう文庫 | 〔2〕ささやきの小径〜旧サナトリウム | 〔3〕旧軽銀座〜観光会館〜神宮寺の桜 |
〔4〕近藤長屋〜つるや旅館〜ショー礼拝堂 | 〔5〕二手橋〜犀星文学碑〜白鳥文学碑 | 〔6〕水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会 |
〔7〕テニスコート〜万平ホテル〜三笠ホテル | 〔8〕碓氷峠見晴台〜万葉歌碑〜御風歌碑 | 〔9〕熊野皇大神社〜吾妻はや〜アリスの丘 |
旧軽ロータリー〜旧軽銀座
高原の木立を抜け、旧軽ロータリーの手前へ合流。そして軽井沢一番の目抜き通りである旧軽銀座へ。もうシーズンオフのそれも平日だというのに、けっこうな賑わいでした。もっとも、さすがの「モカソフト」にも行列はできていませんでしたが。
今年(平成15年)の夏、お盆休みのトップシーズンに家族で来た時は、こういうところが大好きな小学六年の娘に付き合わせられて、旧軽銀座を行ったり来たり。小学三年の息子も、昨年夏に立ち寄った時、同行の知人におもちゃを買ってもらった店を覚えていて、結局今年も買わされました。
写真はそれから15年後の平成30年4月10日の午後2時。旧軽のロータリーを銀座通りを背に新軽方面を向いて撮ったもの。ちょうど人が切れたところです。自動車もほとんど走っていませんでしたので、道の真ん中に立って撮れました。夏休み中はここを中心に大渋滞します。
こちらではまだ早春のシーズンオフで、さすがの旧軽銀座も朝方はお店もほとんどやっておらず(そもそもまだ営業を開始していない店も多く)閑散としていましたが、それでもお昼近くになってくると観光客がそれなりに押し寄せてきていました。かつては西洋人が多かったのですが、今では東洋系が多くなった印象です。
この二股は、左が軽井沢本通りで、右は離山通りです。右へ行くとやがて雲場池通りと交差する文字通り六つ股に分かれる「六本辻」に出ます。
軽井沢観光会館(旧郵便局)
左は平成8年に新築された現在の観光会館 右は17年前(昭和61年当時)の旧観光会館
旧館は明治44年(1911)建築の旧・軽井沢郵便局舎をそのまま利用したもので、旧軽銀座のランドマーク的な建物でした。平成に入りさすがに老築化が進みましたが、この建物を惜しむ多くの声により、平成8年(1996)7月に「明治四十四年館」として塩沢湖畔「軽井沢タリアセン」の園内に移築保存されています。
そして同時に、その二階に「深沢紅子野の花美術館」が開館されました。深沢紅子(こうこ)さんは夫君の深沢省三氏とともに洋画家ですが、軽井沢文学の愛読者には言わずと知れたお馴染みの女流画家でしょう。
野の花の画家・深沢紅子さん
深沢紅子さんが初めて信濃追分を訪れたのは昭和10年(1935)の夏で、『四季』のなかでも最も『四季』の詩人らしい詩人の代表である津村信夫の最初の詩集『愛する神の歌』の装幀用の画を描くためでした。その時「油屋」で、同じく『四季』のもう一人の代表格である若きエース立原道造とも知り合い、のちの立原の盛岡行きに大きく関わっています。紅子さんは盛岡の出身で、立原はその実家の別荘「生々洞」に滞在したのでした。さらに、これは堀辰雄亡きあとのことですが、前ページで紹介した釜の沢の「堀辰雄1412番山荘」に昭和39年(1964)から約20年にわたって毎年夏を過ごしたといいます。
(この深沢紅子野の花美術館[明治四十四年館]はじめ軽井沢高原文庫、ペイネ美術館など軽井沢タリアセンの施設や塩沢湖周辺については改めて別にページを設けたいと思います)
ところで、旧軽井沢郵便局というと、私は三島由紀夫の『夜の仕度』や『仮面の告白』を思い出します。『夜の支度』は私が偏愛する短篇小説ですが、そのヒロイン頼子、それから基本的には同じ人物がモデルとなっていると思われる『仮面の告白』の園子の肖像が、私にはどういうわけか水戸部アサイさんに重なって見えます。いや、きっとそれは尤もなことで、三島由紀夫にはそう見られることを望んでいると思われる節があります。.
ブランジェ浅野屋/ミカドコーヒー
右上の昭和61年の古い写真でも、手前に「YA」だけしか写っていませんが、「ブランジェ浅野屋」のファサードテントのデザインは今(平成15年)も変わっていません。ここのパンは軽井沢の水と天然酵母を使って石窯で焼き上げられています。パン好きの先生は帰途、一行から離れ、おもむろに店の中へ消えましたとさ。
それから15年後の平成30年4月10日の午前9時半の写真です。右上の写真からは32年経っています。イメージは変わりませんね。旧軽の中でもメイン中のメインの場所で、人が全く写っていない写真が撮れるのは滅多にあることではありません。
結婚記念日当日でした。旧軽を散策後、ジョン・レノンとヨーコ・オノも食べ歩きしたというミカドコーヒーのモカソフトを舐め、ブランジェ浅野屋でお昼につまむパンとお土産にラスクを買いました。そして、前日泊まった万平ホテルで購入したお土産と合わせて、現在の軽井沢郵便局から自宅へ発送しました。
旧軽井沢の本町通り(軽井沢銀座)
旧軽ロータリーから旧軽井沢の本町通り(現在では一般に「軽井沢銀座」あるいは「旧軽銀座」と俗称される軽井沢一の商店街通り)を行くと、まず楽焼屋さんや青果店があり、旧軽井沢森ノ美術館があります。
そのあたりから沿道の両側にたくさんの店が連なり、ミカドコーヒー、軽井沢芳光、その先に郵便局、中山のジャム、観光会館、ブランジェ浅野屋、その向かいに土屋写真館、その少し先に大阪屋家具店があり、軽井沢写真館とギャラリー藤井の建物の角の狭い道(というよりうっかりすると見落としてしまいそうな通路)を左折すると、神宮寺の境内に通じます。
神宮寺の枝垂れ桜
軽井沢とくれば教会ですが、当然のことながらここは日本ですから、神社もあればお寺もあります。神宮寺は旧軽銀座と水車の道の間にある真言宗智山派の寺院で、山号は表白山、院号は釈迦院。御本尊は大日如来。旧碓氷峠にある熊野神社の別当寺であったよし。
その境内に、樹齢400年だという枝垂れ桜の巨木があります。ただしこれは、上記の旧軽銀座から横道に入った側(こちらが表参道)の桜であり、『美しい村』の“彼女”が絵を描きに来た桜の根元ではありません。
神宮寺と堀辰雄
私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。 ――堀辰雄『美しい村』「夏」―― |
むかしは花畑であったという、この一段低くなっている場所は、現在では「神宮寺駐車場」になっていて、この桜がある前あたりには、なんと簡易トイレなんぞが設置されています。
実を言うと、当日何も考えずそこを利用させてもらったのですが、今回このページを作るに当たって、久しぶりに『美しい村』と小川和佑先生の『堀辰雄 その愛と死』を読み返して、あっと気づいたのでした。
神宮寺と川端康成
もう一つ文学との絡みで言えば、『美しい村』の“彼女”である矢野綾子さんが他界した翌年の昭和11年(1936)8月、川端康成が初めて軽井沢を訪れ、この神宮寺の境内に接した藤屋旅館に滞在しました。雑誌『文學界』のスポンサーである明治製菓の内田水中亨の斡旋で、明治製菓の広報誌『スヰート』に神津牧場見物記を書くことになったためですが、神宮寺の境内が見えたという藤屋の部屋で、かの名作『雪国』も書かれたということです。
ご周知の通り『雪国』は当初は短篇の連作として断続的に発表されていたもので、時期から推し量れば、『文藝春秋』の昭和11年10月号に発表された「火の枕」の章がそれに当たりましょうか。
その翌昭和12年6月、それらの連作をまとめて書き下ろし部を加えた『雪国』を創元社より刊行します。この『雪国』は今日見るような完結本ではありませんが、刊行の早くも翌月に第三回文芸懇話会賞を受賞しました。そして、その賞金で川端は軽井沢1307番の別荘を購入したのでした。
川端山荘と堀辰雄
そしてその桜沢の山荘は、のちに堀辰雄が『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」を書き上げた場所ともなったのです。立原道造が「悲劇は豚の悲鳴ではじまった」と神保光太郎に宛てた手紙で書いた、昭和12年11月18日の油屋の火災で焼け出されたからです。
たまたま堀辰雄は軽井沢の郵便局に行き、川端山荘を訪れていて難を免れたのです。もっとも荷物はすべて焼かれてしまったわけで、とりわけ惜しかったのは執筆のための資料や集めた本でした。婚約者を失い、大切な資料も失い、そうして川端が去ったあとも厳冬の軽井沢に残って、いや本当にインクも凍るという極寒の軽井沢に引き籠って、あの『風立ちぬ』を完成させたのでした。
そして15年後、何度も言うようですが初めて軽井沢に来てから32年、神宮寺の桜が咲いているのを初めて見ました。といってもこちらではまだ早春、蕾がほんの少し膨らみ始めたといった程度ですが、こんな写真が撮れました。
御詠歌を刻んだ石碑には、「佐久八十八ヶ所 御詠歌 第十六番札所 表白山 神宮寺」とあります。
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