〔1〕序〜新軽〜矢ヶ崎大橋〜りんどう文庫 | 〔2〕ささやきの小径〜旧サナトリウム | 〔3〕旧軽銀座〜観光会館〜神宮寺の桜 |
〔4〕近藤長屋〜つるや旅館〜ショー礼拝堂 | 〔5〕二手橋〜犀星文学碑〜白鳥文学碑 | 〔6〕水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会 |
〔7〕テニスコート〜万平ホテル〜三笠ホテル | 〔8〕碓氷峠見晴台〜万葉歌碑〜御風歌碑 | 〔9〕熊野皇大神社〜吾妻はや〜アリスの丘 |
小川和佑先生の軽井沢文学ツアーもいよいよ佳境。さて、お昼です。ランチをどこでとるか。いずれにしろ、25名の大所帯では一緒にというわけにはいきません。教会通りから、再び観光会館前へ。
午後は自由行動の予定でしたが、皆で一緒に碓氷峠の見晴台に行くことに決定。バスの時間を確認し、いくつかのグループに分かれ食事。先生と公開講座事務局のN嬢とわれわれゼミのOB連は、観光会館横からテニスコート通りへ。
軽井沢会テニスコート
※残念ながら、写真を撮りそこねました。かの有名な、今上天皇・皇后両陛下のロマンスの場であらせられます。
因みに、勤皇派の「西向の山」夫婦の結婚式の日取りは、両陛下(当時は両殿下)のご成婚の儀が挙行された日に合わせたのでした。即ち、昭和34年から29年後の4月10日。このサイトの開設日にしている日でもあります。振り返ってみれば、それは「昭和」最後の春でした。
※そして、それから満30年。平成30年4月9日の夕方、15年前に撮りそこねた写真を撮ってきました。まだシーズン前で、コートを整備中でした。
ここのコートは昔からクレイコートだそうです。クレイコートとは、CLAY(土・粘土)の表層に砂を撒いたコートで、管理が大変な分、足への負担が少なく、自然なスライドができ、ボールのバウンドも素直とのこと。夏や冬に行くと分かりますが、夏場は土埃が、冬は霜柱が立ちやすいコートです。
さすがに窓はアルミサッシュに取り替えられていますが、クラブハウスもほぼ昔のまま。さらに、軽井沢会の集会所は築100年近く経っていますが、現在でも軽井沢会テニス倶楽部によって大切に管理・維持されています。
テニスコートのフェンス沿いに、離山が望める場所がありました。これは翌朝、万平ホテルから来てはじめて気が付いたのですが、この写真の位置からでしか望めません。この少し手前だと高い樹木が邪魔し、少し進むと今度は正面の建物に隠れてしまいます。
ショー通り
実はこのテニスコートのあたりは、元はといえば軽井沢の開拓者である例のA・C・ショーさんが畑を切り拓いた場所でした。チサ(レタス)やキャベツなど当時はまだ日本ではほとんど食されていなかった洋種の野菜の栽培を、農産物のあまり採れないこの寒村の村人に伝えたのでした。
そうしたことから、テニスコートの西角から軽井沢本通りへ通じる道を「ショー通り」と敬愛を籠めて(いやそれ以上におそらく感謝の気持ちを籠めて)名付けられています。上の写真正面に直角に交差する道です。
ユニオンチャーチ
ロイヤル・ロマンスのテニスコートの南側、ショー通りを少し行った所から諏訪の森通りへ入ると、ユニオンチャーチと諏訪神社があります。狭い範囲内に、神社と教会と寺院が並んでいるのも軽井沢(いや日本)ならではですね。(これも今度写真撮ってきます)←と言いながら、平成30年春も撮ってこれませんでした。
ユニオンチャーチは明治30年(1897)に軽井沢合同基督教会として設立されました。国籍も教派も問わないというのが理念で、誰もが参集できる教会です。ただし夏しか開いていません。日本語学校は通年開校されているそうです。
諏訪神社
諏訪神社というのは全国に2万5千社ほどあるそうですが、軽井沢地方開拓当初(というのは、江戸初期の宿場誕生の頃のことでしょうか、それよりもっと以前?)、総本山である信州一宮の諏訪大社から分霊勧請された神社で、軽井沢郷の鎮守産土神です。
御祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)とその妃・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)です。苔むした御神木が有り難さを増幅させてくれます。元旦の新年祭、2月の節分祭、8月の例大祭では花火大会が開かれるそうです。神社で花火大会とは珍しいですね。
軽井沢会テニスコートの南側の道(オーディトリアム通り)を東進し、桜の沢方面へ向かいます。因みに、テニスコートの北側の道は「ロストボールレーン」と呼ばれています。
さて、いつもダンディな小川先生とランチするなら、やはりここでしょう。そうです、万平ホテルです。10月も半ばのしかも平日でしたが、さすがに盛況で混雑していました。
それから15年後の平成30年春の軽井沢行きの一番の目的は、信濃追分の写真を撮ることでしたが、もう一つの大きな目的は、結婚記念日に万平ホテルに泊まることでした。正確に言うと、前日から泊まって結婚記念日の朝を万平ホテルで迎えることにありました。(臆面もなく言いますが……)
公式サイトの「ホテルの歴史」によると、明和元年(1764)、旅籠「亀屋」として創業。明治27年(1894)、欧米風の外国人専用ホテルに改装し、「亀屋ホテル」と改める。二年後、MAMPEI
HOTEL(萬平ホテル)に改称。ホテルとなってからでも、今年(2005年)で創業111年になり、いろいろ記念のイベントがあるようです。
宿泊すると、ホテルの歴史が詳細に記された『万平ホテル 創生期の記憶』(2009年4月初版/2016年10月改編)という冊子がもらえます。抜粋して引用したいところですが省略します。興味ある方は、泊まらなくても200円で購入できます。
ジョン・レノンと軽井沢
この万平ホテルに宿泊した著名人は枚挙に暇がありません。しかしやはり、このお方ではないでしょうか。
1970年というから、ビートルズ解散直後から、かのジョン・レノンがお忍びで毎年のように泊まっています。もちろん、元はといえば安田財閥のお嬢様であるヨーコ・オノの導きでしょう。
しかし71年の夏は来たかどうか。この夏は、本国イギリスのアスコット、ティッテンハースト・パーク内に建つ白亜の豪邸である自宅兼スタジオで、例の名作『IMAGINE』をレコーディングしていましたから。ただし、二人の待望の赤ちゃんであるショーン君が生まれた前後の75、76年以降は、確かに毎年のように滞在していたようです。
私事ですが、1976年の夏、中学一年生の私は、ジョン・レノンに一目会いたいがために、軽井沢行きを計画しました。結局、実現しませんでしたが……。行っていたら会えた可能性は大だったのにね。
お忍びのところ普通では接触できないと考え、ドイツ・ホーナー社のブルース・ハープをポケットに入れ、ジョンが通りそうな所に待ち伏せる。そしていよいよ来たら、知らぬ振りをして、『LOVE ME DO』を吹いているという計画……。
(いやはや何とも。しかし同じようなことはみんな考えたんだろうな。1980年には、これをニューヨークのダコタ・ハウスの前でやるという計画に変更しましたが、これも実現されぬまま、あんなことに……)
元々避暑地としての軽井沢は、ヨーロッパ(特に北方系)やカナダ系の外国人を中心に発展してきたわけですが、今や軽井沢に関わった最も一般に有名な外国人は、ジョン・レノンといえそうです。
『IMAGINE』のメイキング・フィルム『GIMME
SOME TRUTH』の映像を見る限り、イギリスのアスコットは軽井沢に似た感じがあります。ジョンはアイルランド系であり、英国はロイヤルの国です。(ジョンがビートルズ時代に痛烈な皮肉を浴びせたのは、英国王室に対してではなく、それを取り巻くブルジュアに対してでした。しかしジョンの「革命」思想は、本質的にマルキシズム革命とは異なります)。
そんな共通点もあり、ジョンは軽井沢を愛したのでしょう。何より、外国人を珍しがらない風土が良かったのでしょう。
万平ホテルの中庭です。客室からでないと撮れないアングルです。つまり、宿泊しないと撮れないわけです(エッヘン)。私たちの結婚記念日当日の朝一番の写真です。YOKO氏が自身のスマートフォンで初めて手動式のパノラマ撮影を試みました。
左に見えるのが本館のアルプス館で、手前に張り出しているのがメインダイニングルーム。正面が史料室やバーがある棟。右は別館。庭には鳥はもちろん小動物なんかも遊びに来るそうです。
平成30年4月10日の朝です。1階左手のカフェテリアは、夏場はオープン・デッキになります。ション・レノンのリクエストで生まれたという「ロイヤルミルクティー」は今では定番メニューになっています。これも人気のフレンチトーストと一緒にどうぞ。
ここでエリアが突如飛びますが、ホテルつながりということで――。
リバティ・アカデミーの一行がランチしている間に、ちょっとワープします。
旧三笠ホテル
旧軽ロータリーから白糸ノ滝方面へ通ずる三笠通りは、元はといえば草軽電気鉄道の軌道跡で、カラマツの並木が一直線に続きます。軽井沢本通りから続く現在の自動車道としてはこちらがメインストリートになります。(ここも写真撮りたいですね)→いつか〈軽井沢広域編〉で取り上げたいと思います。
夏場はもちろん渋滞します。自転車の方が快適かもしれません。旧三笠ホテルは軽井沢駅から約3.5kmで、自転車で直行すると25分ほどです。なお、その先、白糸ノ滝方面へは自転車での通行は禁止されています。背の高いカラマツの並木が鬱蒼としていて、夏でも涼しげです。
軽井沢の鹿鳴館とも称される旧三笠ホテルは、昭和55年(1980)、国の重要文化財に指定されました。
間違ったことを書いてもいけないので、以下の解説は、拝観時にもらえる館の栞から抜粋して引用させていただきます。
三笠ホテルは、日本郵船や明治製菓の重役を務めた実業家・山本直良が創業。明治37年(1904)着工。翌年竣工。アメリカで設計を学んだ岡田時太郎の設計で、すべて日本人によってつくられました。ホテルの営業は明治39年5月に開始。電灯によるシャンデリア照明、英国製タイルを張った水洗便所、英国製のカーペットの採用など、当時の最先端・最高級の設備が整えられています。国の重要文化財に指定されたのは、日本人の手による純西洋式木造ホテルという点が高く評価されたもので……。
小川先生の公開大学ツアーの二ヶ月前にも、実は家族で来たのでした。その時は雨の中の訪問になってしまいました。いくら軽井沢といえども暑い盛りのはずの8月半ばのお盆休み中でしたが、寒くて寒くて……。しかし、正真正銘年代物の硝子(ガラスではなく漢字で硝子と表記したくなるような硝子)が曇って、そこに水滴が幾筋か流れ、外側には雨粒が弾け、淡いランプの光が当たって、非常に幻想的でシックな雰囲気が漂っていてたいへんいい感じでした。
有島武郎終焉の地
大正12年(1923)7月8日、有島武郎が中央公論社の才媛で美貌の誉れ高い記者・波多野秋子と心中していたのが発見されたと報道され、文壇のみならず世間を驚かせました。有島は妻に先立たれ独身でしたが、秋子は人妻でした。『白樺』派の知の良心と目されていた作家だっただけに、人妻との情死は予想外の驚きでした。
旧三笠ホテル近くの脇道から、愛宕山の山腹を少し登っていくと、「有島武郎終焉地」の碑があります。ここに、その心中の舞台となった有島武郎の別荘「浄月庵」があったわけです。
二人は6月8日の夕刻に新橋を立ち、上野から信越線で軽井沢に入りました。着いたのはすでに夜半で、激しい雨が降っていたといいます。その数時間後の未明に、浄月庵の応接間で縊死したのでした。
当初は失踪事件だと思われていました。たまたま三笠ホテルの別荘番がそろそろ避暑のシーズンに備えようと準備に訪れて、二人を発見したのでした。縊死からすでに一ト月が経過していました。有島武郎は満45歳、秋子は29歳でした。
大正12年の6月から7月にかけてというと関東大震災の直前で、その後昭和の戦中戦後を通じ、浄月庵跡は長く放置されていましたが、昭和26年(28年という説もあり、要検証)の夏、弟の有島生馬により 「有島武郎終焉地」の碑が建てられました。裏面にはこう誌されています。さらに、有島と親交の深かったドイツ文学者・吹田順助の追悼の辞が刻まれています。
大正十二年六月九日朝暁 |
大きなる可能性 混沌の沸乱―有島武郎の霊に捧げる―の一聯 |
左側に見えているのは、有島武郎がスイス滞在中に知り合ったシャフハウゼンのホテルの娘ティルダ・ヘックに宛てた英文で書かれた手紙の一説を刻んだ「チルダへの友情」の碑です。これは、チルダ本人が昭和12年に来日して建てたものです。つまり、当時すでに浄月庵もなく荒れ果てていた地に、有島のモニュメントとして「有島武郎終焉地」の碑よりずっと以前に建てられたものでした。
浄月庵
有島武郎(というより元はその父・有島武の別荘)が三笠ホテルの近くにあったのは、武の娘の一人・愛(武郎の妹)が上記の三笠ホテルを創業した山本直良に嫁いでいた関係があるからでした。
「その浄月庵はその後、軽井沢町青年会の所有となって、軽井沢駅から旧軽井沢ロータリーに向う道の東側に解体、移築されて現存している」
と、昭和55年刊行の小川和佑先生の『文壇資料 軽井澤』にありますが、現在は塩沢湖畔の「軽井沢タリアセン」の施設内に再移築され保存されています。堀辰雄の1412番山荘や野上弥生子の北軽井沢の書斎兼茶室などとともに「軽井沢高原文庫」の入場券で拝観できます。