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小川和佑先生と歩く軽井沢 〔5〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈軽井沢広域編〉

〔1〕序〜新軽〜矢ヶ崎大橋〜りんどう文庫 〔2〕ささやきの小径〜旧サナトリウム 〔3〕旧軽銀座〜観光会館〜神宮寺の桜
〔4〕近藤長屋〜つるや旅館〜ショー礼拝堂 〔5〕二手橋〜犀星文学碑〜白鳥文学碑 〔6〕水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会
〔7〕テニスコート〜万平ホテル〜三笠ホテル 〔8〕碓氷峠見晴台〜万葉歌碑〜御風歌碑 〔9〕熊野皇大神社〜吾妻はや〜アリスの丘

■二手橋(矢ヶ崎川)

二手橋(2003.10.17) 旧軽井沢の本町通り(いわゆる「旧軽銀座」の商店街になっている通り)は緩やかな上り坂になっています。一般的にはそれが目当ての各種商店は一瞥するだけでどんどん北上します。
 順路で言うと、右に郵便局、左に教会通り、右に観光会館、左に神宮寺、右に近藤長屋(前述の如く今はなく、軽井沢クリークガーデンという結婚式場になっています)、左につるや旅館、右に芭蕉句碑、左にショー師記念礼拝堂ならびにショーハウスと、前々ページ〜前ページまでの通り見てきて、その先に進むと矢ヶ崎川に架かる二手(にて)橋に出ます。
 ここが、中山道軽井沢宿の東の外れで、ということは浅間根腰の三宿(東から軽井沢・沓掛・追分)で一番東の外れで、つまりは江戸への出入口に当たります。江戸に近い側といっても、この先には難所中の難所である碓氷峠と関所が控えています。

二手橋(2018.4.10) 写真左は平成15年秋、右は同30年春ですが、ここの雰囲気は昭和61年当時からほとんど変わっていませんね。現在の橋は自動車も通行可のコンクリートの橋ですが、橋の位置は江戸時代から変わっていないということです。
区切りマーク
 橋の名前の由来は、ご多聞に漏れず所説あるようですが、旅籠などの従業員(という言い方はなんだかそぐいませんが)が旅人を送り出すのにこの橋まで送ってきて、それではこれ「にて」 と言って別れたのでという説があります。もちろん「ふたてに」分かれる橋という意味が掛けられているわけですが、番頭や丁稚が見送りにきたというより、飯盛女が後朝の別れに送ってきた場所と言った方がしっくりきますね。
碓氷峠(軽井沢宿側)の碑(2003.10.17) それは京都や北陸方面から江戸へ向かう旅人に対してでありますが、ここは江戸方面から来た旅人にとっては浅間三宿への玄関口ですので、同時に出迎えた場所であり、これも番頭や丁稚が宿屋の勧誘をするより、飯盛女があでやかに出迎えた場所と言った方がそれらしいかもしれません。

■碓氷峠の碑

 二手橋を渡ると、「上信越高原国立公園 碓氷峠」の碑があります。これは浅間山の溶岩石でしょうか?
 ここから右手(道なりに直進方向)へ碓氷峠遊覧歩道が整備されていて、旧碓氷峠の見晴台へ向かって散策(というよりほとんど登山)コースになっています。まあ、一般的にはバスで登って行くわけですが、ここから急坂になります。
 因みに、この碑の左横、次の犀星詩碑の入口手前に公衆トイレがあります。この付近まで来るとお店などもありませんので、用足しはここで。

■室生犀星文学碑(詩碑)

室生犀星詩碑入口(2018.4.10) その碓氷峠遊覧歩道側ではなく、左手に進むと、矢ヶ崎川に沿った土手の道があります。川っ淵に降りて行くと、室生犀星の文学碑(詩碑)と可愛らしい俑人(ようじん)の石像が迎えてくれます。

 右の写真はその入口ですが、平成30年の4月10日はこちらではまだ早春ですから木々の葉が繁っていませんが、下の昭和61年9月13日の写真はまだ紅葉前で、この辺りはひときわ緑が濃いです。
区切りマーク
 旧軽井沢の文学散歩では、堀辰雄の三度山麓や水車の道周辺とともにハイライトになります。今やインターネットの時代ですから検索すればいろいろに解説されていますが、どうもその多くは小川和佑先生の文献が基になっているようです。ならば、適当に編集するより、そのまま引用した方がよいでしょう。

犀星文学碑の俑人像(昭和61年9月撮影)

 黒御影に犀星の自筆で「犀星文学碑」と個性の強い字で題字が深く刻みこまれて、詩集『鶴』のなかの「切なき思ひぞ知る」の詩がそれに続く。犀星の故郷金沢の石工吉田三郎が、詩文を刻んだ。
 この川沿いの道と河原との斜面に石積みをして、そこに碑文が組みこまれてある。碑は道からは見えない。碑の前の小庭には、昭和十二年に、犀星にとっては生涯にたった一度の海外旅行だった旧満州国旅行の際に、朝鮮の京城で贖った石の俑人二体が、大森の魚眼洞の庭からここに移されて据えられた。
 この俑人かたわらに犀星は古い苔むした水盤を置いた。その水盤で小鳥が水を呑み、花の季節には、いつもそこに野の花が投げ入れられてあった。夏から秋へ、碑の面をもみじのの枝が飾る。碑を囲んで、そこが小さな庭園なのだった。道からはこの二体の俑人だけが見える。散歩者がその俑人を見て、なにげなく道を降りてゆけば、そこに犀星詩碑を見出すように作られている。それがいかにも犀星らしい。
 このもみじの老樹の木蔭は夏でも、ひんやりと涼しい。詩碑は犀星自身の手で建立されたものである。――昭和三十四年十二月十七日、『かげろふの日記遺文』で「野間文芸賞」を受賞した犀星は、その祝賀式の席上で「室生犀星文学賞」の設定、『室生とみ子遺稿句集』の刊行と、「犀星文学碑」建立を発表した。
 犀星は自分の文学碑を「野間文学賞」の一部で自ら建立すると言うことは、いかにも唐突にその時は聞こえたが、それもやはり犀星の詩人らしい潔癖からだった。
 多くの文学碑や詩碑が、土地の観光名所になって商業主義に利用されていることも犀星には堪えられなかったし、また、碑や碑文がもしも俗悪なものであったらこれも我慢できそうもなかった。その文学碑は彼に思い出深い軽井沢に建てられることになった。
 七十一歳の犀星は彼の全詩編の中から「切なき思ひぞ知る」の一編を選んだ。
 (碑文の詩の引用は下記に)
 碑の前に佇んで口の中でこの詩を口遊んでいると、激しい犀星の気迫がそのまま伝わって来る。(以下略)

――小川和佑『文壇資料 軽井澤』(昭和55年2月・講談社刊)
「U 我は張りつめたる氷を愛す」――

 この「俑(よう)」とは、かつて中国で墳墓に副葬された人形(ひとがた)のことです。この文学碑建立の当初は、俑人は一体でした。そしてその下には、犀星最愛の妻とみ子の遺骨の一部が分骨されています。
 文学碑完成2年後の昭和37年3月26日、犀星が他界すると、故郷金沢の野田山墓地に埋葬されますが、大森の自宅庭からもう一体の俑人が移設され、妻の遺骨同様に、犀星の遺骨の一部も納められました。
 つまり、今も夫婦してここを訪れる人を見守っているわけですね。

室生犀星文学碑/「切なき思ひぞ知る」詩碑

我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す。

昭和三十五年 十月十八日   
室生犀星 
之建

詩集『鶴』(昭和3年9月素人社書店)
巻頭詩「切なき思ひぞ知る」
初出:昭和3年2月「不同調」
(但し、碑文は筑摩書房版『室生犀星全詩集』に拠る)
犀星40歳の絶唱。

■軽井沢ユースホステル址

 さて、犀星文学碑までは多くの人が訪れますが、その先へはそこに別荘がある人以外はほとんど行きません。いや、かつて(昭和の頃)はユースホステルを利用する若者たちがひっきりなしに登って行ったはずなのですが……。
 上の犀星文学碑入口の写真で、「室生犀星の詩碑」の案内板は石碑っぽい立派な立て看板状の表示ですが、「正宗白鳥詩碑 ここより200m先右」の案内は、ペンキ書きのほんの小さな木片がこれも小さな杭で地面に埋められただけのものです。

廃墟と化した軽井沢ユースホステル  白鳥文学碑への登り道

 その「200m先」の角に、もうだいぶ前から廃墟と化した軽井沢ユースホステルの址があります。昭和34年(1959)6月の完成ということで、国内のユースホステルとしては比較的初期の部類に属します。閉鎖されたのは平成3年(1991)頃のようですが、私が初めてここへ来た昭和61年(1986)当時でも相当さびれていた(というより、営業しているのかしていないのか分からないような状態だった)ように記憶しています。
 当時私も貧乏学生だったわけですが、かつて一世を風靡したユースホステルというものを一度も利用したことはありませんでした。常連のいわゆる「ホステラー」というのは、日本では団塊の世代からその一世代下あたりまで(つまり私より一世代上あたりまで)で、ユースホステルという形態の宿泊施設はすでに廃れたものになっていました。
 ところが、ここは閉鎖された当時のまま、内部の調度なども手つかずで残っているために、逆に昨今は脚光を浴びていて、「廃墟マニア」のあいだでは有名なスポットになっているとのことです。

■正宗白鳥文学碑(詩碑)

 そして、その廃墟の脇の山道をさらに登って行きます。そう、どこまでも登って行きます。結構な登り道です。登って、登って、登って行くと、山の中腹の少し開けた所にひっそりと、非常に美しい文学碑があります。
 小川ゼミの合宿でもここまでは来ませんでした。高齢者の多いリバティ・アカデミー講座のフィールドワークではとても足を延ばせる所ではありません。
区切りマーク(歩く白猫)
 今回(平成30年4月10日)私たち夫婦が来たのも昭和61年以来(当時は夫婦ではありませんでしたが)、32年ぶりです。
 なお、軽井沢ユースホステルからのこの未舗装の山道は、自動車で上がってくることもできないわけではないようですが、けっこう危険な上、山の道を傷めないためにも、極力歩いて登りたいところです。自転車で登るのは無謀です。

白鳥文学碑から見下ろした登山道  白鳥文学碑のある石垣

 やはり軽井沢を愛し、長年居住した小説家で劇作家、文芸評論家としても活躍した正宗白鳥。一般には、どっちが苗字でどっちが名前?などと頓珍漢な質問が飛び出してきそうなぐらい、今では忘れられた(というのか認識度の低い)作家ですが、島崎藤村や徳田秋声らとともに日本ペンクラブを設立し、昭和18年11月3日から昭和22年2月12日まで戦中戦後の大混乱期に二代目の会長を務めています。昭和15年に帝国芸術院会員、昭和25年には文化勲章も叙勲されています。

正宗白鳥文学碑

 写真がないのは残念ですが、碑はクリスチャンの作家らしく十字架をかたどっています。スウェーデン産だという黒御影石の碑面がたいへん美しいです。設計は東京工業大学のの谷口吉郎教授で、昭和40年に建立されました。
 碑の下には、白鳥が愛用していた万年筆が納められ、筆塚にもなっています。おそらくその万年筆で書かれたのでしょう、ペン書きらしい白鳥自筆の文字で、ギリシャの古詩が刻まれています。
 今度機会があったら写真を撮ってきます。
 と、平成16年の年末に書きましたが、平成30年4月10日にやっと実現しました。午前の日差しが強くて、やや白っぽく映っていますが、漆黒の碑面です。

白鳥

花さうび
  花のいのちは
    いく年ぞ
時過ぎてたづぬれば
  花はなく
 あるはたゞ
    いばらのみ


正宗白鳥「花さうび」の詩碑

 正宗白鳥が初めて軽井沢を訪れたのは明治45年7月で、昭和15年には雲場池の畔に山荘を建てています。戦争末期にはそこが疎開先にもなりました。
 小説の代表作とされるのは明治41年(1908)の『何処へ』ですが、これは日露戦争後の青年を描いたもの。それから38年後の昭和21年(1946)発表の短篇「戦災者の悲しみ」は、大東亜戦争後の私小説で、よくアンソロジーなどに取り上げられています。近代日本文学史上で忘れてはいけない作家の一人です。


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