〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 | 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 | 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑 |
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 | 〔14〕油屋旅館・文化磁場油や〜“郵便函” | 〔15〕行在所〜高札場〜諏訪神社〜道造像 |
〔16〕泉洞寺〜樹下石仏・泡雲幻夢童女の墓 | 〔17〕桝形茶屋〜分去れの常夜燈・石碑群 | 〔18〕庚申塚・ホームズ像〜吉野太夫〜跋 |
追分宿江戸口
信濃追分駅から停車場道を北上し、追分宿のメインストリートに突き当たったら右折して、浅間神社を左手に眺めながらさらに東へ進むと、宇佐美のガソリン・スタンドが三角州のようになっている所で国道18号線に合流します。ここが追分宿の東端で、江戸から来れば入口になります。
東京(軽井沢)方面から自動車で来た場合、ここで右斜めに入ればいいわけですが、たしか信号がないのと、平日でも日中は意外と交通量があり、下り坂でスピードが出やすいので、うかうかしていると通り過ぎてしまいます。
追分一里塚
この合流点の数メートル手前(東側)に、中山道の一里塚があります。
一里塚は平安末期や室町時代にも一部ではあったようですが、全国的に整備されるようになったのは江戸初期で、慶長9年(1604)に徳川家康が子の秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりとのこと。以後、お江戸・日本橋を起点に全国各街道の1里(約3.927キロメートル)ごとに一里塚が設置されたわけですが、10年ほどで完成したといいますから当時から日本人の工事能力というか勤勉さが窺えます。
平均的な一里塚の大きさは5間(約9m)四方、高さ1丈(約1.7m)に土を盛り上げ、その上に榎などの樹木が植えられました。その木蔭は旅人のよい休息所になり、樹木の根によって塚の崩壊を防ごうとしたのでした。合理的な知恵ですね。駕籠賃などの単価の基準にもなりました。(以上出典は「ウィキペディア」)
上の写真で、左は現在の国道18号線の下り線側、右は上り線側の塚です。一里塚は本来このように街道を挟んで一対で設置されたのでしたが、よく形を残して現存するものは珍しく、軽井沢町の〈史跡〉文化財に指定されています。
この信濃追分東側の一里塚は、日本橋から39里目(約153km)にあたります。ここから京都へは91里14町だそうです。
なお、小川和佑先生の明大リバティアカデミー講座のフィールドワーク(2007.5.11)で、東京北区の西ヶ原一里塚に行ったことがあります。
そちらは日光御成道(旧岩槻街道)の日本橋から2番目の一里塚ですが、現在の本郷通りを塚を避けて通し、道の両側に江戸時代からの原形を留めている都内ではたいへん貴重な史跡で、国の文化財に指定されています。榎の木は江戸時代からのものではありませんが、新たに植樹され往時が想像されます。
御影用水(上堰)
さて、再び追分宿の旧道に戻ります。国道18号線から右脇に入ると、いつ整備されたのか現在はご覧の通り石畳で舗装されています。浅間神社や追分宿郷土館への入口になる所に、これもいつできたのか町営の駐車場があります。50台くらい停められそうです。嬉しいことに無料ですので、車はずっとここに停めっぱなしにして、追分宿はのんびり歩いて巡るべきでしょう。(土日祝日や夏休み中は有料になるのか未確認)。
綺麗な公衆トイレもあります。その裏側に流れるのが御影用水(の上堰)です。千ヶ滝から取水して、追分の宿場を流れ、御影新田村へ続いています。下流の佐久平の用水路として作られたもので、千ヶ滝用水とも呼ばれています。右の写真は緑が濃いですが、平成19年7月9日に撮ったものです。
軽井沢町追分宿郷土館
御影用水の爽やかな流れを渡って、ちょっと奥へ行くと軽井沢町追分宿郷土館があります。追分に来たらまずはここを訪ね、宿場の歴史を学びましょう。堀辰雄文学記念館と共通の入館券(大人400円※平成30年4月現在)で両方入館できます。
・住所:長野県北佐久郡軽井沢町大字追分1155-8
『追分宿散策マップ』より
中山道追分宿が宿場として成立する慶長7年(1602)、また北国街道追分宿として訴訟文書に宿場名が記載される慶安3年(1650)以降の宿場資料(本陣文書等歴史資料・旅籠、茶屋、問屋使用の民俗資料)と宿場成立以前、追分の原始・古代・中世の文書(町指定大般若経)、考古遺物を展示公開しています。
『同館リーフレット』より
軽井沢町追分宿郷土館は、追分宿及び軽井沢町西地区の資料を一堂に集め、宿の構造や歴史などへの理解を深めてもらうために保存し、昭和60年(1985)7月に開館しました。
旅籠を模してつくられた建物で、宿場の雰囲気を出すため、内外観とも木造風を基調とし、外観は江戸時代の旅籠に似せてコンクリート壁に木造の出桁造り(出梁造り)をめぐらしてます。
常設展示室入口には茶屋(追分桝形の茶屋を実測した1/3の模型)の一部を復元し、当時使われていた品々を配するなど、追分地区ゆかりの資料を中心に、縄文時代(今から4,000〜5,000年前)の追分のあけぼのコーナーから現代までの歴史を、年代を追ってたどることができます。
また2階の企画展示室には軽井沢出身の書家、稲垣黄鶴の書や追分に関係する古書・古文書、桝形の茶屋・油屋をはじめとする旅籠・茶屋の模型など、企画展に合わせて展示しています。
昭和60年7月に開館したということは、私が初めて訪れた時はまだオープン間もない頃だったのですね。
郷土館の入口手前、看板の裏側にある「馬頭観世音」の碑は、追分宿の問屋衆で役馬の供養と安全祈願に寛政6年(1794)6月に建立されたもの。明治11年の北陸御巡幸の折の道路整備で一度破棄されましたが、追分宿郷土館の開館に合わせて改修、再建立されたそうです。
『日本文芸鑑賞事典』
※平成6年(1994)9月時点で、ここの資料室の書架に、小川和佑先生はじめ私たち夫婦を含め小川ゼミの門下生数名がその執筆者に名を連ねた『日本文芸鑑賞事典』(ぎょうせい刊)が全20巻揃いで収まっていました。それが、平成30年(2018)4月現在も手に取れるような形で置いてありました。(堀辰雄文学記念館にも同様に現存していました!)。結構、感動であります。
追分案内書
・『信濃国中山道・北国街道往還 歴史と文学を訪ねて 追分宿散策マップ』(編集:軽井沢町追分宿郷土館/発行:軽井沢町教育委員会/初版:2005年1月/2版:2009年7月)は受付で300円で購入できます。この散策マップは江戸時代の「町割図」を中心に編集されているのが特徴で、巻末に天明年間と文久年間の町割図が折り畳まれています。
・『歩いて 見て 食べて 追分楽しませたい ガイド・マップ』(発行:しなの追分楽しませ隊/2016年7月)は無料で置いてあります。お店などの情報は古いですが、どちらも必携ですね。
旧・軽井沢測候所
追分宿郷土館の裏手の方に回り込んだ所に、昔の「軽井沢測候所」があります。平成21年(2009)10月1日をもって業務を自動化し、現在は職員が駐在しない「軽井沢特別地域気象観測所」に移行しています。こんな所をわざわざ訪れる人など滅多にいないと思いますが、実は間接的にですが立原道造に関係する施設なのでした。
立原道造が初めて追分に来たのは、昭和9年(1934)7月25日のことですが、旧測候所の嘱託?(※)でもあった近藤武夫の勧めによるものでした。近藤武夫は当時東大理学部の助手で植物学者でしたが、前田夕暮が主宰していた口語自由律短歌の歌誌「詩歌」の新進歌人でもありました。まだ一高に入学したばかりの立原を前田夕暮に紹介したのは近藤で、立原は三木祥彦の筆名で「詩歌」に短歌を投稿するようになります。立原が一方ではたいへん優秀な建築家でもあったというのは有名な話ですが、大学(もちろん東京帝国大学)で建築学科に進学するように勧めたのも近藤だったといいます。
そんなゆかりを探索したく、わざわざ廻ったのでした。
※ただし今、近藤武夫氏と旧測候所との関係を裏付ける文献を発見できずにいます(要検証)。
立原は追分に来る前に軽井沢のつるやに滞在していた堀辰雄を訪ねていますが、たまたま帰京中で会えませんでした。7月22日に東京を出発した立原は、友人の沢西健と二人で軽井沢から神津牧場や小諸を廻った後、沢西と別れ一人で信濃追分駅に下車したのが7月25日でした。その翌日、堀辰雄がつるやを引き払って追分の油屋に移って来ました。近藤と堀は旧知の間柄でした。
堀辰雄に室生犀星を紹介され、近藤武夫を介して、旧本陣永楽屋の孫娘で東京の家政学院に通っている関鮎子が帰省しているのに知り合いました。そうです、こうして立原道造の「村ぐらし」が始まったのでした。84年前の話です。