〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 | 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 | 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑 |
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 | 〔14〕油屋旅館・文化磁場油や〜“郵便函” | 〔15〕行在所〜高札場〜諏訪神社〜道造像 |
〔16〕泉洞寺〜樹下石仏〜泡雲幻夢童女の墓 | 〔17〕桝形茶屋〜分去れの常夜燈・石碑群 | 〔18〕庚申塚・ホームズ像〜吉野太夫〜跋 |
追分宿京口
泉洞寺を出て、西へ行くと、追分宿旧道の西端の出入口に出ます。東の入口(江戸口)には信号機がありませんが、こちらにはあり交差点になっています。佐久方面から来る場合は、ここで斜め左に入れば追分宿の旧道です。
この交差点から旧道は新道(国道18号線)に吸収された形になっていて、「分去れ」までの区間は旧道が消滅しています。
こんなホームページを作っているくらいですから、私は追分が大好きなのですが、実のところ、はっきり言ってしまえば、明治以降は現在に至っても追分は観光地としてパッとしません。高原の観光地として国内最大級の軽井沢がすぐ近くにあるというのもありますが、江戸時代の旧宿場としての魅力に乏しいからです。
たとえば同じ中山道の妻籠宿や馬籠宿のようなそれらしい雰囲気はほとんど残っていませんし、戦国時代よりもっと古い時代からの旧街道という点でも、熊野古道や木曽路の一部に残っている山の中の本格的な細道とも異なります。何も知らずに車で通りかかったら、ちょっと何かありそうだと思っても、単なる旧道として素通りしてしまうかもしれないような自動車道です。でもいいのです、ここはこれで。
桝形の茶屋(つがるや)
そんな追分宿で、旧宿場の面影を伝える数少ない現存する遺構が、桝形の茶屋(つがるや)です。ただこれも、かろうじて残っているだけといってよく、内部も保存(あるいは復元)されて公開されているわけではなく、いわんや今日でも茶屋(もしくは土産物屋)として営業しているというものでもありません。
サッシはアルミサッシに取り換えられ、電気も通っているようです。昭和20年代の写真を見ると、ほとんど廃屋に近く、それよりはましかもしれませんが、こういう保存でいいのかどうかは疑問ですね。
現在は道が一直線ですが、桝形というぐらいですから、宿場に入る手前のこのあたりで道が鉤型に曲がっていたのでしょう。さらに8尺ほど(約2.5メートル)の土手が築かれていたそうです。屋根は板葺きで、二階が張り出している出桁造り。二階の白壁に残る漆喰塗りの屋号が印象的です。
追分の「分去れ」
そして追分宿を少しはずれた西の端、中山道(中仙道)と北国街道(海道)の分岐点に盛土され、道標や常夜燈、道祖神や観音像などが立ち並ぶ場所があります。この三角州を「分去れ(わかされ)」と呼んでいます。油屋とともに私が一番愛着があり大事にしたいと思っている場所です。
これは昭和61年(1986)9月14日、小川和佑先生の近代文学ゼミで初めて軽井沢〜信濃追分合宿に来た時の写真です。右側が北国街道、左側が現在は国道18号線になっていますが、少し先の浅間サンライン入口交差点の少し手前を斜め左(南)にそれると再び旧中山道に出ます。行き過ぎても、浅間サンライン入口の交差点を左折すれば旧中山道です。
分去れの道標と常夜燈
こちらは平成15年(2003)8月12日の写真。家族旅行で。この時は、御殿場(で法事)〜河口湖(泊)〜清里〜信濃追分〜旧軽井沢〜中軽井沢(泊)〜鬼押出し園〜草津温泉(泊)というかなり変則的なルートをたどりました。
先頭に道祖神の石造、その次に角柱型の道標が建っています。道標は延宝7年(1679)の建立。
左の側面に「従是中仙道」、右の側面に「従是北国海道」と彫られています。
この立派な常夜燈は寛政元年(1789)の建立。台石の一番上には「町内安全」、上から三段目には「是よ里(り)左伊勢」と右から左へ刻まれています。
右の写真はさらに4年後の平成19年(2007)7月9日。
下は今回平成30年(2018)4月9日の写真。
1986年から2018年までの32年間を、おおむね四分割して見比べると、案内標識や説明看板の移り変わり(充実度)がよく分かりますね。
分去れで美しい虹が出た
大正13年(1924)8月13日の夜、芥川龍之介は逗留していた「つるや」の主人佐藤不二男氏の案内で、同宿の室生犀星、そして片山広子(廣子)、総子の母娘とで旧碓氷峠へ月を見に行きました。
犀星が東京に帰ったあとの19日にも、芥川は再び片山広子を誘って、(今度は広子だけを誘って、といってもつるやの主人も一緒ですが)、自動車を雇ってここ追分に来ます。近藤富枝氏は『信濃追分文学譜』で、「当時は国産車などないから、当然シボレーかフォードの中古車だろう」と書いています。
その時のことを、芥川は犀星への手紙でこう述べています。
けふ片山さんと「つるや」主人と追分へ行つた非常に落ついた村だつた、北国街道と東山道との分れる処へ来たら美しい虹が出た
廿日か廿一日頃かへるつもり
片山広子(松村みね子)
芥川は犀星から来た手紙への返信の末尾に、つけたしのようにそう書いています。さりげなさを装っていますが、書かずにはいられなかったのでしょうね。私は長いこと文面通りに受け取っていましたが、今ここに書き写していてふと気づきました。もしかしたら《「つるや」主人と》というのは、犀星を憚ってのことで、実際には広子と二人きり(+運転手)で来たのではなかったのか……。
片山広子については「軽井沢文学散歩〔6〕−水車の道〜片山別荘〜聖パウロ教会」で書きましたが、繰り返すと、外交官・吉田ニ郎氏の長女で、東京麻布の生まれ。元大蔵官僚で日本銀行理事だった片山貞治郎氏の夫人で、一男一女がありました。というより、翻訳家としての筆名である「松村みね子」としての方が有名でしょう。ジョン・ミリントン・シング、レディー・グレゴリー、W・B・イェーツなどのアイルランド文学の翻訳、紹介をし、歌人であり、晩年には随筆集『燈火節』で日本エッセイスト・クラブ賞も受賞しています。
芥川龍之介と「越し人」
生まれながらにして文句なしの上流貴婦人のうえ、「清楚で、色白な美しい人であった」(『文壇資料 軽井澤』)という以上に、知性と教養もずば抜けていて、歌人ですから当然芸術心も豊かでした。大正13年当時、満で46歳。超エリートの夫は4年前に50歳で亡くなっており、未亡人でした。そして芥川は32歳。
これも先に引用しましたが、芥川は、末尾に(昭和二年六月、遺稿)とある、(これは芥川があえて書き添えたものなのか、編集者が末尾に断り書きを添えたものか不明ですが)、遺稿として発表された『或阿呆の一生』で次のように書いています。その実際のところの顛末は、さまざまな評伝で描かれていますので、それらをお読みください。
三十七 越し人 |
芥川龍之介と片山広子、森於菟彦と三村夫人
翌大正14年(1925)の夏の終わりにも、芥川龍之介は片山広子を誘って追分に来ています。今回はまだ学生の堀辰雄も一緒でした。
堀辰雄は、芥川龍之介とまったく同じコースを歩み(ちなみに立原道造も)、府立三中(現・両国高校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学に入学したばかりの満で言えば20歳でした。
後年、堀は芥川と広子を材にして、「物語の女」という作品でその追分行きをこう小説化しています。
…… …… …… |
堀辰雄と片山総子、都築明と菜穂子、そして立原道造
「物語の女」は最初、昭和9年(1934)10月号の「文藝春秋」に発表され、同年11月山本書店刊行の単行本『物語の女』に収録されますが、のちに「楡の家」第一部として、堀辰雄の唯一の“ロマン”(本格的長編小説)といわれる『菜穂子』を構成します。
これはあくまでも小説(フィクション)ですが、注目すべきは、堀辰雄が実際には経験していない前年の虹を見たエピソードを合成して小説化していることです。(堀は芥川の全集編纂の折に、犀星への手紙を閲覧したのでしょう)
(上記に続いて) |
こうなるともう完全に小説(フィクション)の中の話ですが、主人公・菜穂子のモデルは片山広子の娘・総子(筆名:宗瑛)であるといわれ、都築明には作者自身がたぶんに反映されていますが、それ以上に立原道造の面影が色濃く描かれています。
中村真一郎、福永武彦、加藤道夫
そのあたりのことは、もう何度も言及している小川和佑先生の『文壇資料 軽井澤』と、これまた芥川・堀の弟子で立原の後輩である中村真一郎の〈新潮選書〉『芥川・堀・立原の文学と生』(昭和55年3月・新潮社刊)を参照されたし。ちなみに、小川和佑先生の“お師匠さん”が中村真一郎「先生」です。
ともかく、そういうこともあって、堀辰雄がここ追分を終の住処にしたのも頷けるというものです。同じく堀の弟子で中村真一郎とは中学からの同級生である福永武彦が、やはり追分に昭和29年(1954)から亡くなるまで住んだのも堀の影響でしょう。
福永武彦の山荘に私は行ったことがありませんが、油屋の裏手あたりの小径を入ったところにあるらしいです。その山荘は元は劇作家の加藤道夫の持ち物で、加藤自死後に譲り受けたとのこと。「玩艸亭蝸々草舎(がんそうていまいまいそうしゃ)」と名付けられたその山荘は、その後増改築がなされますが、写真を見ると(『玩草亭日和』福永武彦研究会のブログ)、屋根の形が立原道造が設計した《浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群》の小住宅〈風信子荘〉の〈片流しの屋根〉に似ていて、何だか嬉しくなります。
さらに言うと、この山荘の敷地内にあると思しき、石に彫り付けられた思惟尊者像は、泉洞寺の「樹下石仏」(歯痛地蔵尊)とは構造が異なりますが、首を傾け頬に手を当てている、その手が堀辰雄が「樹下」で書いていた通り「右手」です。泉洞寺の歯痛地蔵尊は左手。
分去れの道祖神
分去れの三角州の先端にあるこの道祖神は、そのものずばり石の表面に「道祖神」と彫られているだけのもですが、裏側の形状も見てくるべきでした。まあこの形がそうともいえるのですが……。
森羅亭万象歌碑
森羅亭万象は、江戸後期の戯作者、狂歌師で、蘭学者・森島中良の戯号だそうです。平賀源内の弟子で、幕府の奥医者・桂川甫周の実弟で、通称・甫粲(ほさん)といい、ほかにも別名があったようです。
世の中は ありのままにぞ 霰降る かしましとだに 心とめねば
と刻まれているらしいです。常夜燈と同じ寛政元年(1789)に建立されているようですが、由来や経緯は私が調べた範囲ではよく分かりませんでした。
勢至菩薩
常夜燈より少し後ろの右端に建つ勢至(せいし)菩薩です。元禄6年(1693)の建立ということです。梵名はマハースターマプラープタ。
『ウィキペディア』によると、「現在日本では午年(うまどし)の守り本尊で、十三仏の一周忌本尊として知られている」ということですから、馬頭観音とも関係あるのかもしれません。さらに「日本では、勢至菩薩が単独で信仰の対象となることはきわめてまれで、多くは阿弥陀三尊の脇侍として造像された」とありますが、勢至菩薩は二十三夜の本尊として祀られていて、二十三夜の「月待行事」の記念に建てられた刻像塔です。文字塔は次ページの庚申塚公園で見られます。
子抱き地蔵
赤子を抱いている子抱き(子育て)地蔵尊は安永6年(1777)の建立で、その台石には、
《さらし奈盤右みよし野ハ左乎尓て月登花と越追分の宿》
(更科は右 み吉野は左にて 月と花とを 追分の宿)
と風流に歌で道標が刻まれています。
江戸から見て右に行けば、北国街道の姥捨山付近の「田毎の月」で有名な更科へ、左に行けば、中山道から東海道で京都、さらにその先の「桜」の名所でひところは天皇もおわした“御(み)”吉野へ、その分岐点である追分は、(思い描けば)月も花もあるぜよ、追分に泊まってよき旅の夢を、というような今でいえば「ようこそ、追分」みたいなキャッチコピー看板でしょうかね。
さらに、一番上の台石には要所までの行程が彫られています。
南面に、
小田井江(へ)一里/御嶽山江(へ)三十三里半/津島江(へ)六十七里半/伊勢江(へ)九十二里十一町/京都江(へ)九十三里半/大坂江(へ)百七里半/金比羅江(へ)百五十里半
西面に、
めうぎ江(へ)七里/山道九里/はるな江(へ)十六里/一ノ宮十里/三河屋/高崎江(へ)十三里/江戸江(へ)三十八里/日光江(へ)四十四里
北面に、
金沢江(へ)八十五里/新潟江(へ)六十六里/高田江(へ)三十四里/戸隠山江(へ)二十三里/善光寺十八里/小諸三里半
もちろん、どこへ行くにも歩いて行くわけですね。一番遠いのは、讃岐(現・香川県)の金比羅(金毘羅)で約591Km。江戸時代には、お伊勢参りについで、熊野詣や金毘羅参りが庶民の憧れでした。しかしそこまで行けない人は、ここから北国街道に入り、「牛に引かれて善光寺参り」で知られる信濃(現・長野県)の善光寺を目指したのでした。
馬頭観音ではなく、「牛馬千匹飼」観音立像と廻国塔
右下の写真は、分去れの一番奥、三角州の底辺にあたるところで、馬頭観音と廻国供養塔が建立されているとされています。それぞれ安永3年(1774)、寛政4年(1792)の建立とのこと。
しかしこれなんですが、奥の観音立像、多くの方がこれを馬頭観音だとしていますが、ここに元あったのは「馬頭観世音の碑」で、それは現在は次のページでアップする「庚申塚公園」に移設され、この観音様は別の観音なのではないか、というのは私の記憶違い、認識違いでしょうか。
というのは、この観音様はたいへんたおやかで女性らしいお姿をされているので、馬頭観音ぽくないというのがまず第一の理由です。
『ウィキペディア』でも、「他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、一般に馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である」と書かれています。
もう一つには、先の移設された碑というのは、単に「馬頭観世音」という文字だけが彫られた石碑なのですが、そういう石碑は、お馬さんが移動や荷役にさかんに使われるようになった近世以降、馬や牛をはじめとする動物供養のために、特に街道筋などに建てられたといいます。とするなら、分去れにある(あった)という「馬頭観音」が「馬頭観世音の碑」であっても不思議はありません。
どうもそんな気がしてなりません。これも再調査の必要がありますね。しかし、私が間違っているかもしれませんので、どなたかぜひご教示ください。馬頭観音の立像で間違えないのかもしれません。台座に何か書かれていると思いますので、次回はしっかり確認してきます。
令和2年6月5日、追分を語るにはたいへん遅ればせながら、後藤明生の長編小説『吉野大夫』(昭和56年・平凡社刊)を読みました。これはきわめて実験的な小説で、あくまでも「小説」ではありますが、事実の部分は事実でしょう。それによると、やはり
《馬頭観音は、この三角地帯にではなく、北国街道をわたしの山小屋の方へ折れ曲ってゆく、その角のあたりに移されている。》
とあり、つまり次ページの庚申塚公園に移設されているようです。そして、
《供養塔は、三角地帯の一番奥の方に立っていた。胸のあたりに「牛馬千匹飼」と書かれた、細長い観音様のような立像である。》
とあります。ここでは「胸のあたりに」とありますが、同作中に出てくる木村素衛氏の「吉野太夫の墓」(昭和15年4月号『文藝春秋』)では、《六角の臺座の正面に》刻まれていて、《その直ぐ右の面に安永三年十一月吉日とある。》ということです。これは事実そのままだと思われますので、この観音様は「馬頭観音」ではなく、「牛馬千匹飼」観音立像です。意味合いとしてはほぼ同じで、要するに「馬頭観音」ともいえるのかもしれませんが、正確には少し違っています。
北国街道から見た分去れ
長年ここへ来て、北国街道の側から見た分去れを、今回初めて写真に撮りました。夏とは樹木の風景がだいぶ異なりますね。晩秋から冬の景色も見たことがありません。真冬の雪景色、見てみたい気もしますが、うーん……。