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小川和佑先生と歩く軽井沢文学散歩アルバム 〔16〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈浅間広域編〉

〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 〔14〕油屋旅館・文化磁場油や〜“郵便函” 〔15〕行在所〜高札場〜諏訪神社〜道造像
〔16〕泉洞寺〜樹下石仏〜泡雲幻夢童女の墓 〔17〕桝形茶屋〜分去れの常夜燈・石碑群 〔18〕庚申塚・ホームズ像〜吉野太夫〜跋

■泉洞寺(参道と山門)

 追分公民館のほぼ向かい(北側)に曹洞宗のお寺「浅間山 泉洞寺」があります。というより、もちろんこちらの方が先にあったのです。そうです、堀辰雄が愛した「樹下石仏」があるお寺です。
 元は「仙洞寺」といったそうです。《江戸時代、火災に遭遇したことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して「仙洞寺」から、水を持って寺を守る様にと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願った》とお寺のホームページにあります。発音は「せんとうじ」と濁りません。

泉洞寺(参道)  泉洞寺(山門)

■泉洞寺のお地蔵さん群

左:カーリング地蔵/右:卓球地蔵 まずは本堂にお参りします。が、その前に眼を引かれるのが、カーリング地蔵と卓球地蔵です。左が「氷環(カーリング)慈石地蔵尊」で、台座がカーリングの「ハウス」と「ストーン」になっていて、スウィーパー(ブラシのような道具)を持っています。右は「卓球慈光地蔵尊」で、卓球台の上になぜか両手にラケットを持っています。
 こうした新しいお地蔵さんは評価(というか好み)が分かれるところですね。堀辰雄や小川和佑先生は好まないと思いますが、立原道造はどうでしょうか。江戸時代あるいはそれ以前の古いお地蔵さんも、実はその当時の(あえて言えば俗悪な)最新ファッションや風俗が反映されているのかもしれませんので、まあおもしろいなと思いながら手を合わせればいいのではないでしょうか。

 泉洞寺の御本尊様は聖観世音菩薩様です。
 大本山は、福井県のかの有名な永平寺(高祖道元禅師さま御開山)と横浜市の總持寺(太祖瑩山禅師さま御開山)

古くからのお地蔵さんと新しいお地蔵さんの団体さん
歴史的なお地蔵さん群  新しいお地蔵さん群

■稲垣黄鶴の句碑と筆塚

稲垣黄鶴の句碑と筆塚書家稲垣黄鶴の句碑「浅間嶺の今日は晴れたり蕎麦の花」

 この方は存じませんので、お寺のホームページから。
《稲垣黄鶴は、追分の「三浦屋」(三浦屋の菩提寺が泉洞寺)という旅籠の娘として、明治36年(1903)11月3日に誕生した。翌年、上田市の旧上田藩の書家、湯浅蛭渓家の養女となった。幼少の頃より書を習い、後に中国へ渡り本格的に書道を研鑽した。敗戦後は日本に戻り、昭和23年(1948)女流書道協会理事、書道芸術院審査委員となり、昭和27年(1952)日本書道院理事兼審査委員となった。 以後数々の書道関係の役員を務め、昭和44年(1969)日本書道院副会長となり、長くその職を果たしたのち顧問として活躍された。泉洞寺書院の襖をはじめ、香華臺(檀信徒会館)の襖、数々の書が寺に保存されている。 平成18年11月6日享年104才にて逝去されました。》

区切りマーク(歩く白猫)

■堀辰雄が愛した「樹下石仏」

 さて、これが目的です。泉洞寺裏手の墓地へ行く西側の小径のお寺側に、ちんまりと首を傾げて坐っています。地元では「歯痛地蔵尊」として親しまれ信心されてきましたが、それはごくローカルなことで、堀辰雄の「樹下」に描かれて有名になりました。となれば、堀辰雄の文章を引用した方がよいでしょう。 

堀辰雄の愛した「樹下石仏」

■堀辰雄「樹下」

   樹 下
              堀 辰雄
 
 その藁屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径(こみち)のかたわらに、一体の小さな苔蒸した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。いずれ観音像かなにかだろうし、しおらしいなどとはもってのほかだが、――いかにもお粗末なもので、石仏といっても、ここいらにはざらにある脆もろい焼石、――顔も鼻のあたりが欠け、天衣(てんね)などもすっかり磨滅し、そのうえ苔がほとんど半身を被ってしまっているのだ。右手を頬にあてて、頭を傾げているその姿がちょっとおもしろい。一種の思惟象とでもいうべき様式なのだろうが、そんなむずかしい言葉でその姿を言いあらわすのはすこしおかしい。もうすこし、何んといったらいいか、無心な姿勢だ。それを拝しながら過ぎる村人たちだって、彼等の日常生活のなかでどうかした工合でそういった姿勢をしていることもあるかも知れないような、親しい、なにげなさなのだ。……そんな笹むらのなかの何んでもない石仏だが、その村でひと夏を過ごしているうちに、いつかその石仏のあるあたりが、それまで一度もそういったものに心を寄せたことのない私にも、その村での散歩の愉たのしみのひとつになった。 ……  ……  ……
 
   ――初出:昭和19年(1944)1月号『文藝』
   ――初刊:昭和29年(1954)7月『大和路・信濃路』(人文書院)
   (※漢字は新字体に、仮名も新仮名遣いに変換しています。下記も同様)

 現在お寺は藁屋根ではありません。ここに、「右手を頬にあてて」とありますが、現物の写真を見ての通り、「左手」の間違えです。対面してポーズをまねると、ミラーのように思わず右手をあててしまうことによる錯覚でしょうね。
 建立についての詳細は不明とのことで、堀辰雄と当時の住職の間でこんなやりとりがなされます。

■「思惟」か「歯痛」か

   樹 下
              堀 辰雄
 
「お寺の裏の笹むらのなかに、こう、ちょっとおもしろい恰好をした石仏があるでしょう? あれはなんでしょうか?」夏の末になって、私はその寺のまだ四十がらみの、しかしもう鋭く痩やせた住職からいろいろ村の話を聴いたあとで、そう質問をした。
「さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりませんが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、まあ如意輪観音にちかいものかと思いますが。……何しろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもしたのではないでしょうか?……」
「そういうこともあるんですか? それはいい。……」私にはその説がすっかり気に入った。たしかに、その像をつくったものは、その形相の意味をよく知っていてそう造ったのではない。ただその形相そのものに対する素朴な愛好からそういうものを生んだのだ。そうしてその故に、――そこにまだわずかにせよ残っているかも知れない原初の崇高な形相にまで、私のようなものの心をあくがれしめるのであろうか? こんないかにもなにげない像ですら。……
「ときどきお花やお線香などが上がっているようですが、村の人たちはあの像にも何か特別な信仰をもっているのですか?」
 最後に私はそんなこともきいてみた。
「さあ、それもいつごろからの事だか知りませんけれど、わりに近頃になってからだそうですが、歯を病む子をつれて、村の年よりどもがよく拝みに来ます。」そういってその住職は笑った。
「あの指先で頬を支えている思惟の相が、村びとにはなんのことやら分からなくって、いつかそんな俗信を生むようになったと見えますな。」
 ……  ……  ……

 昭和55年2月刊行の小川和佑先生の『文壇資料 軽井澤』によると、
《かつてはもう少し奥の熊笹の繁みの中に、台石の上に少し不似合いな蓮台を乗せて、その上に安置されていた。背後にあった(けやき)の老樹は台風で吹き折られていたが、森の奥の日の射さない小暗い笹やぶの中の像は「樹下」の描写の通り半ば苔に覆われて、眼の高さの位置にあったが、いまは樅(もみ)の木に囲まれた囲いの中にあの大きな蓮台が取去られて、そのまま台石に直接安置されている》
 とあります。1970年代には現在の場所に移設され、1986年に私が初めて訪ねたとき以降は今日に至るまで移動していません。ただし無粋な囲いは取り除かれたようです。あの「黄金の70年代」に“軽井沢ブーム”が起こり、それは80年代後半のバブルの頃にピークを迎えますが、70年代に比べると80年代に入ると、もう堀辰雄で訪ねてくる人は少なくなっていたということでしょうか。

■泉洞寺墓所

泉洞寺の無縁仏墓  泉洞寺の万霊供養塔

 もう一つの目的が、泉洞寺の墓所内にあります。樹下尊者思惟像なのか歯痛地蔵尊なのか、堀辰雄の愛した石仏の奥へ廻り込みます。今では無縁となって久しい墓石がたくさん転がっています。江戸時代に追分宿として栄えた頃からのものでしょう。その中の一つに――

■ふたたび立原道造の「村ぐらし」

 村ぐらし
              立原道造

 ……  ……  ……
   *
あの人は日が暮れると黄いろな帯をしめ
村外れの追分け道で 村は落葉松の林に消え
あの人はそのまま黄いろなゆふすげの花となり
夏は過ぎ……
   *
泡雲幻夢童女の墓
   *
昼だからよく見えた 街道が
ひどい埃をあげる自動車が
浅間にかかる煙雲が
昼だから丘に坐つた 倒れやすい草の上
御寺の鐘がきこえてゐた
とほかつた
   *
 ……  ……  ……
 

   ――初出:昭和9年(1934)12月『四季』第2号
  (小川和佑編『立原道造詩集』平成元年6月・明治書院刊に拠る)

 この詩の中で、ただ一行だけ独立して、「泡雲幻夢童女の墓」というのが出てきますが、これは現実にありました。そして現在もあります。これは立原の創作ではありませんでした。他には何も言っていないのですが、それはそれだけで詩になっています。

■泡雲幻夢童女の墓

 こうしてアップの写真を見ると、大きいもののように見えますが、台座を含めても1メートルに満たないものです。だからそのため、たびたび誰かが勝手に移動してしまうことがあるようです。小川和佑先生の『文壇資料 軽井澤』では、「墓地の入口にある。以前はずっと奥の木立の陰にひっそりと置かれてあった」とありますが、1986年にはまた奥の方に転がっていました。それが現在はまた墓地の真ん中あたりの目立つところにあります。そして、本来はもっと風化して摩滅している墓碑銘の文字が、心無い者によって削られています。

泡雲幻夢童女の墓

 初めて小川ゼミの合宿でここへ来て、たくさんの今にも朽ち果てそうな墓石の中から、当時はもっと奥にあったこの墓石を発見した時は、それはもう感動したものでした。二十歳の立原道造が初めて追分に滞在し、それを詩にしてから52年後のことでした。そして今(この写真を撮った平成30年)は84年も経過しているのでした。


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