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小川和佑先生と歩く軽井沢文学散歩アルバム 〔13〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈軽井沢広域編〉

〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 〔14〕 〔15〕

昇進橋欄干の行燈■昇進橋

 うとう坂から再び停車場道と交差するT字路に戻り、そこを通り越し西へ下ると、昇進橋に差し掛かります。
 元は「精進場橋」と言われていましたが、追分宿の商業繁栄を願って「昇進橋」という文字が当てられるようになりました。宿場の発展に伴って「昇進」したからという説もあります。その名にあやかって、最近流行りのパワースポットとして注目されているようです。
 かつては土橋でしたが、現在のコンクリートの橋は平成7年3月に竣工されたもの。表面はコンクリートで舗装され、地続きに同じ石畳で覆われていますが、もしかしたら骨格は現在も土橋なのかもしれません(要検証)。橋というより、土手に土手が交差しているようにも見えます。

■神田坂

 昇進橋を渡ると、神田坂です。追分宿内では最も高所になり、街道の北側を流れる御影用水から宿内で使用する用水を取り入れた重要な坂だったそうです。
 そして、その坂を下って行くと南側に、堀辰雄の終の棲家となった旧宅、現在の堀辰雄文学記念館があります。

 そうです、いよいよ信濃追分文学散歩一番のハイライトです。軽井沢を愛した作家は数多くいますが、とりわけ信濃追分を愛し、軽井沢の風土から多大な影響を受け、軽井沢を体現したといってもいい作家の代表といえば、やはりこの人でしょう。

■堀辰雄と軽井沢・運命の出会い

 堀辰雄が初めて軽井沢を訪れたのは、大正12年(1923)8月4日でした。今風にいえば満18歳の、まだ第一高等学校三年の生徒でした。その年の5月(一説には前年の秋)、母校である府立第三中学校(現・都立両国高校)校長の広瀬雄の紹介で室生犀星の知遇を得ていた堀少年は、夏の休暇に、犀星の誘いでその滞在先である旧軽井沢のつるや旅館を訪ねたのでした。(一説には犀星に伴われて、あるいはそのお伴として軽井沢入りしたとも)。
堀辰雄文学記念館入口看板と旧本陣裏門 なんとなれ、18歳です。東京のそれも土着的な隅田川べりの下町に生まれ育った堀少年にとって、当時の軽井沢は文化的衝撃そのものだったといっていいでしょう。この最初の10日程の滞在で、堀辰雄のその後の人生が変わったといっても過言ではありません。まさに幸福で刺激的で希望に満ちた薔薇色の日々だったことでしょう。

 8月13日に向島小梅の家に戻ってからも、まだ興奮冷めやらずだったに違いありません。しかし、帰京の日からちょうど20日目の9月1日の正午、彼(いや彼だけでなく神奈川・東京を中心に関東の南一帯に住む幾百万の市民)を奈落の底に突き落とす出来事が起こります。そうです、関東大震災です。
 堀辰雄自身、九死に一生を得ますが、最愛の母・志氣を亡くします。志氣は一人息子の辰雄を溺愛していました。すでに文学を志していた辰雄少年に理解を示していました。それだけでなく、堀辰雄が室生犀星の知遇を得るのは田端の犀星邸の隣に住んでいた広瀬雄の口添えですが、そもそも息子の母校の校長である広瀬雄にその斡旋を頼み込んだのが志氣でありました。母にとっては室生犀星が何者だかよく分からなくても、ともかく高名でまだ上り調子の作家であり、その屋敷を初めて訪問する際、母親の志氣が付き添っていたといいます。とんだ過保護のようにも思えますが、そんな母を震災で亡くしたのです。しかも、悲惨な状態で……。

 いや、そこから話し始めていたら、一冊本を書かなくてはならなくなります。作家の生涯と文学の背景を物語的に知りたければ、ぜひ小川和佑先生の『堀辰雄 その愛と死』(昭和59年1月・旺文社文庫)をお読みください。 

■追分宿本陣門(裏門)

 話が飛びますが、現地に戻って、堀辰雄文学記念館の入口には現在なにやらこの作家には似つかわしくない門が立っています。これは追分宿の旧本陣の裏門を移築したものです。

追分宿旧本陣の裏門(2007.7.9)『案内板』を抜粋・要約します。
 追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分宿が宿場の機能を持つのは慶長七年(1602)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。
 明治26年に信越線が全線開通すると、追分宿を利用した宿継の荷駄・旅人は他の交通手段に代り、宿場としての機能を失う。本陣の門(裏門)は明治末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家の表門として移築され、約100年の間、大切に扱われてきた。
 内堀家においては、本陣門が町の歴史的遺産である事をご理解され、平成17年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。

 そして軽井沢町教育委員会によって、旧中山道に面したこの地に再移築され、現在は堀辰雄文学記念館の入口となっています。
 ですので、小川ゼミの合宿で三回来た時はもちろん、明大リバティアカデミー(現在は「・」を付けない表記)のフィールドワークでもし来ていたとしても、お目にかかっていないわけです。私が初めてこの門を見たのは、平成19年7月9日に先輩の五十嵐正人さん一家と来た時で、その時撮った写真がこれですが、何か非常な違和感を覚えたものです。

■堀辰雄文学記念館

 ここを訪れたら、堀辰雄文学記念館編集、軽井沢町教育委員会発行の『常設展示図録』を手に入れてほしいものですが、最新版である平成15年7月発行の改訂版でも、その表紙にでーんとある入口の写真にこの本陣門は写っていません。当然のことですが。それが元の姿です。
堀辰雄文学記念館への通路 現在入館時にもらえるリーフレットにはもちろん写っています。しかし、門の少し先に見える、浅間山の溶岩石を利用した苔むした支柱だけの門の方がよほど洒落ています。元はといえば、個人のお宅ですからね。

 その門を潜ると、さらに少し道があります。こうして写真で見比べて初めて気が付きましたが、石畳状に舗装されています。思えば前回来た時から11年も経っていたのでした。  

「堀辰雄文学記念館概要」(『常設展示図録』)より
 堀辰雄文学記念館は辰雄が晩年過ごした追分の住居、書庫、蔵書、遺愛の品々などを堀辰雄夫人・堀多恵氏から寄贈されたことを受け、軽井沢町が管理棟を新たに建設し、平成五年(一九九三)四月に開館しました。木々に囲まれた敷地内には、閲覧室(管理棟)のほか、展示室、辰雄の旧宅、書庫が独立して建っています。閲覧室では、堀辰雄に関する図書や資料が保管され、希望があれば誰でも図書を閲覧することができ、展示室では、原稿、書簡、初版本、初出雑誌、遺品などの資料が展示され辰雄の生涯と文学の背景を知ることができます。旧宅は辰雄が晩年を過ごした住居で、生涯創作への意欲を抱きながら、療養の日々を送りました。

堀辰雄文学記念館管理棟(閲覧室)その管理棟内の閲覧室には、前々ページの追分宿郷土館の項で書いた通り、小川和佑先生はじめ私たち夫婦を含め小川ゼミの門下生数名がその執筆者に名を連ねた『日本文芸鑑賞事典』(ぎょうせい刊)全20巻が、平成30年(2018)4月現在も手に取れる位置に所蔵されていました。重ねて言いますが、感動しました。 

【開館時間】9時〜17時(入館は16時30分まで)
【休館日】水曜日(祝日の場合は開館)
(7/15〜10/31は無休、12/28〜1/4は休館)
【入館料】大人400円・小中高生200円(追分宿郷土館と共通)
【住所】長野県北佐久郡軽井沢町大字追分662
【TEL・FAX】0267-45-2050

◇今年(平成30年)は開館25周年企画展として、第一弾「堀辰雄とすばらしき文学者たち」(3月15日〜6月17日)、
第二弾「堀辰雄の世界―堀辰雄・多恵の結婚80年によせて―」(7月12日〜12月2日)が開催されています。

■堀辰雄終の住処(公開後)

 堀辰雄はまだ一高生だった大正12年の夏以来、毎年のように軽井沢を訪れるようになり、その滞在は次第に長くなって、やがては自身の山荘を持つようになります。山荘の変遷については『常設展図録』に写真と地図で詳しく載っています。

 戦争末期の昭和19年、辰雄は満39歳。「文藝」1月号に「樹下」を発表。その下旬に“ベア・ハウス”主人の森達郎と疎開用の家を探しに追分へ行きます。しかし帰京後に喀血。絶対安静の日々が続きます。6月に軽井沢入りできるぐらいに回復しますが、27日に津村信夫の訃報に接します。立原道造に続いて、またも『四季』の若き有望な後輩が病に倒れたのです。9月に追分の油屋旅館(昭和12年11月の焼失後、向かい側の現在地に再建された後の油屋)の隣の家に転居します。
 戦後は病床に就くことが多くなり、昭和22年2月には一時重篤となります。翌23年11月には仲間内で最年少だった野村英夫も失います。ただ、戦後の出版ラッシュに川端康成や一高時代からの親友・神西清の尽力で旧作が再刊され、昭和25年10月、自選の全6巻からなる『堀辰雄作品集』(角川書店刊)で第4回毎日出版文化賞を受賞したりします。しかし病状は良くなりません。

堀辰雄終の棲家(2018.4.9)

 そして、昭和26年の7月に、この信濃追分の家を新築し、移り住みます。もはや山荘(別荘)ではなく自宅住居です。
 しかし、わずか2年に満たない間住んだだけで、昭和28年(1953)5月28日午前1時40分、夫人の多恵さんに看取られながら息を引き取りました。生まれは明治37年(1904)12月28日。満でいえば、ちょうど48歳5か月でした。

■堀辰雄終の住処(公開以前)

 縁先に、現在では見事な蔓を張った藤棚があり、5月(今年は早かったそうですが、例年だと平地より遅い下旬)に綺麗な花を咲かせるとのことですが、これを堀辰雄は見ていません。まだ若木だったから、というのではありません。
 この住居が記念館の中の一施設として一般公開されるずっと以前の18年半前、私たちが小川和佑先生のゼミ合宿で初めて訪ねた昭和61年(1986)9月14日の写真をご覧ください。縁先に藤棚の影も形もありません。個人的に懐かしいだけでなく、今となっては貴重な写真です。それでも、主の死から33年が経過していました。

一般公開前の堀辰雄終の棲家(1986.9.14)

 念のため断っておきますが、小川和佑先生を通してご遺族である堀多恵さんの許可を得て、庭からのみ見学したのでした。2年後の昭和63年、神奈川近代文学館で開催された「堀辰雄展−生涯と芸術−」で堀多恵さんにお目にかかる機会があり、ほんの少しですがお話したことがありました。
 右に少し白い壁が見える家が、辰雄没後に多恵さんが建てた二階建ての家で、夏を過ごされていましたが、これが現在は常設展示室になっています。

■堀辰雄終の住処(内部)

 この家に昭和26年7月に転居して以来、戦後の文壇、出版界の空前の活況を尻目に、療養に専念する日々を余儀なくされました。右側の四畳半の部屋でほとんど病臥の生活でした。しかし、その床の周りは本だらけだったといいます。
 右に見える机と椅子は辰雄自身のデザインで作らせたもの。左に隣接する三畳の間は多恵さんの部屋で、一間半の本棚が設えています。調べものなど辰雄がほしいと思った時にすぐ手元から抜き出して渡せるようにという妻の配慮でしたが、むしろ自分の部屋に据えた方が良かったと後悔したとか。しかし、いずれにしても、のちにはほとんど万年床になっていましたので、床の周りに本が積み重ねられた状態になるのは変わらなかったでしょうね。

堀辰雄旧宅(辰雄の四畳半と多恵さんの三畳間)  堀辰雄旧宅(辰雄デザインの机と椅子)

 床の間の掛軸は、新築祝いに川端康成から贈られたもの。川端自身の筆で「雨過山如洗」と書かれています。読み下せば、「雨過ぎて、山洗うが如し」でしょうか。追分の山を思い出させると辰雄を喜ばせたといいますが、なにか清冽なイメージで、病床の心も洗われるような思いがあったのではないでしょうか。
 籐椅子のセットは、元祖「歌う映画女優」の高峰三枝子さんから贈られたものだそうです。ちょっと気になりますが、来歴は不詳です。この家の特徴的なのが、その籐椅子セットが置かれた板の間で、日本家屋の縁側というよりサンルームに近いウッドデッキになっていて、開放的で庭が見渡せます。

堀邸の庭から見た管理棟(2007.7.9)  堀辰雄旧宅六畳の居間(2007.7.9)

 鉤型状に六畳の居間と、見えませんが奥には台所や風呂場もあるようです。これらは冬を越すために、あとから(といっても最初の年の秋に)増築されたものといわれています。その居間の現在は左側に、軽井沢彫りの飾り棚が置かれています。
 昭和13年(1938)4月17日、堀辰雄は室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵さんと結婚します。それから今年で満80年になるわけですが、これはその際、最初の婚約者で昭和10年12月6日に夭折した矢野綾子さんの実家から結婚祝いに贈られたものです。多恵さんとの結婚を矢野家も後押ししたのでした。それが綾子さんの遺志でもありました。

■堀辰雄書庫

 この茶室風の書庫が完成したのは、亡くなる10日ほど前でした。建物が完成するのは見られたようですが、もはや起き上がることができず、寝床から手鏡で見るしかなかったといいます。楽しみにしていた、蔵書が収まるところを見ることはありませんでした。
 こんな書庫が持てたら、本を分類してああでもないこうでもないと、並べるのが楽しくて仕様がないでしょうね。私なら寝食を忘れて籠っていそうです。さぞや無念だったでしょう。

堀辰雄書庫

 小川ゼミの合宿で昭和61年と平成元年に来た時は、前述の通り一般公開前ですので、建物の外側しか見ていません。初めて内側を見たのは平成5年の夏にゼミ仲間の別荘に泊まりに行った時でした。この時オープンしたばかりだったのですね。
 堀辰雄はその蔵書を分野別に分類し、本の並べ方を17枚のカードに示しました。没後、多恵夫人によって、その通りに並べられています。ただし、現在収まっているのは展示用のレプリカです。そして実際にはこの限りではないはずです。

堀辰雄書庫の蔵書(複製)

◆その蔵書がどのようなものであるか。「軽井沢町」の公式サイト内の記念館のページに、『堀辰雄蔵書目録』がPDFファイルでアップされています。弔辞のレコードの細目やSPレコードの所蔵目録などもあり貴重な資料です。同サイト内には特別展はじめ「緑陰講座」の案内や「記念館だより」なども掲載されています。

■常設展示室

 常設の展示では、堀辰雄の生涯を6つの時期に分け、それぞれの年代の関係資料を展示して、その生涯と文学の背景が紹介されています。何度来ても、見飽きません。
 特に目を引くのが、原稿に書簡やメモ類はもちろんですが、彫金師であった養父(辰雄は実父と疑わずに成長した)上條松吉が作った“辰ちゃん”の迷子札、因縁の片山總子が描いた辰雄の顔のスケッチ、分去れの常夜燈を背にステッキをついて写っている有名な写真で着用していた白のセーターとベレー帽にマフラーの実物、立原道造から贈られた中身が入ったままの木いちご酒のボトルなどなど……。
 写真は撮れませんので、ぜひ現地へ行って、その目でご覧ください。

■堀辰雄文学碑

「施設紹介」(『常設展示図録』)より
 平成十三年十月、軽井沢町によってこの地に建立されました。
 昭和十八年四月、堀辰雄は夫人とともに木曽路を通り大和路に旅しましたが、この旅の所産が「辛夷の花」「浄瑠璃寺の春」となって結晶しました。碑文は夫妻が大和へ向かう途中、木曽福島のつたや旅館(現在、つたやグランドホテル)に一泊したときに、堀辰雄が宿の主人に請われて書いたものです。堀辰雄が残した数少ない毛筆による自筆の文で、夫人の多恵氏によって選ばれています。

堀辰雄文学碑(全景)

「施設紹介」(『常設展示図録』)より
 碑の石材は白御影石で、堀辰雄が好みまた堀辰雄の文学の基調となっている白を表しています。基台の円柱は堀辰雄が文学において希求し、表現しようとしたものを象徴しています。

堀辰雄文学碑(碑文)

 泊まった宿の主人に請われて、こんな風に揮毫できたら良いですね。(もちろん、無名の一般庶民が請われることはないのですが)。それが散文というのも堀辰雄らしいところです。いかにも堀辰雄が好みそうな、気品のある文学碑ですね。

区切りマーク(歩く白猫)

■『堀辰雄初期作品集』

 最後にもう一度管理棟に戻って、『常設展示図録』はじめ企画展の図録や絵ハガキなどを購入していただきたいものですが、堀辰雄は小説家です、一番のお勧めは、何よりもその作品で、ここでしか手に入らない『堀辰雄初期作品集』です。
 堀多恵子・池内輝雄:選、解説:池内輝雄、編集:堀辰雄文学記念館、発行:軽井沢町教育委員会で、2004年7月30日に発行されています。しかし書籍コードもなければ、定価もついておらず、記念館の図録と同じ扱いのようです。でも四六判254頁のハードカバーの単行本です。
 2004年なんてつい最近のような気がしていましたが、もう14年前で、まだ在庫あるでしょうか。おそらく再版はされていないと思います。たしか2,000円ぐらいでした。まだあれば、ぜひ購入をお勧めします。ただし、新潮や角川で出ている6冊ほどの文庫本(どれも薄いです)を読んだ上での話ですが。各種日本文学全集などの『堀辰雄集』なら、主要作品のほとんどが一冊で読めます。


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