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小川和佑先生と歩く軽井沢文学散歩アルバム 〔14〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈浅間広域編〉

〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 〔14〕油屋旅館・文化磁場油や〜“郵便函” 〔15〕行在所〜高札場〜諏訪神社〜道造像
〔16〕泉洞寺〜樹下石仏・泡雲幻夢童女の墓 〔17〕桝形茶屋〜分去れの常夜燈・石碑群 〔18〕庚申塚・ホームズ像〜吉野太夫〜跋

■御宿 油屋」(入口)

「油屋」旅館の入口(平成19年7月9日) 堀辰雄文学記念館を出て、目の前の旧中山道の往還を挟んだ向かい側の少し西へ行くと、そうです、「油屋」旅館があります。
 いや、そう言うより、油屋の方が先にあって、焼亡前の油屋が元あった場所の隣に堀辰雄が山荘を建て、そこが作家の終の住処になり、そして現在は記念館になっていると言った方が正確でしょう。
 軽井沢で文学の風土を訪ねるなら、旧軽のつるや旅館、桜沢の万平ホテル、愛宕山麓の旧三笠ホテルとともに絶対に外せない宿泊施設が油屋旅館です。そんなことは軽井沢・信濃追分の文学を愛する者には、私がことさら言うまでもないことでしょうが。

 その往還に面した入口の写真、上は平成19年(2007)7月9日に撮ったもので、まだかつてのよすがを留めていますが、この年の4月から旅館としての営業は休止されていました。
 下はそれから10年半後の平成30年(2018)4月9日、後欄で詳しく述べますが、「信濃追分文化磁場 油や」として再生されたあとの佇まい。石垣やその上に設置された行灯型の看板は変わりませんが、屋号の表示は変わっています。それと新たに「油やプロジェクト」の趣旨が記されたパネル看板が設置されています。

信濃追分文化磁場「油や」の入口(平成30年4月9日)区切りマーク(歩く白猫) 江戸時代、油屋は追分宿の脇本陣でした。何度も言うようですが中山(仙)道と北国街(海)道の分岐点にあたる追分宿は、浅間三宿(東から軽井沢・沓掛・追分)のなかでは最も栄えていました。それが明治の御維新以後、参勤交代もなくなり、急速にさびれていきました。
 明治42年(1909)には鉄道が開通しますが、その軌道を街道筋から大きく迂回させ、「追分仮停車場」のちの信越本線「信濃追分」の駅もあえて宿場から遠ざけたことも、あとになってみれば仇になりました。

 追分宿には脇本陣が二軒あり、そのうちの一軒が油屋小川助右衛門家。もう一軒は甲州屋若林家。
 脇本陣時代は「平入り切妻造り」の建物でした。「切妻造り」とは、屋根の形状で、屋根の頂上部から地面に向かって本を伏せたような山形になっている形状の建築物をいい、「平入り」とは、屋根の長辺側(もしくは屋根の棟と並行の面)に入口がある様式を分類した呼び方です。
 軽井沢町追分宿郷土館編集の『追分宿散策マップ』(2009年7月24日・2版)によると、「間口9間半、奥行16間半」とありますが、「平入り」ということと写真を見るとどうも逆の「間口16間半(約300m)、奥行9間半(約173m)」ではないでしょうか。つまり往還に面して横に長い建物だったのではないか。もし奥行の方が長い「間口9間半、奥行16間半」が正しいとすれば、「平入り」ではなく「妻入り」(屋根の棟と直角の面に入口がある)の間違えか…?(要調査)

■油屋(本館と新館)

 いずれにしろたいへん立派な建物ですが、その建物は昭和12年(1937)11月18日(15日、19日という記述もありますが、『文壇資料 軽井澤』の小川和佑編「軽井沢文学年表」に拠る)の昼すぎ、隣家からの失火によって焼亡してしまいました。またたく間に燃え広がり、ほんの30分ほどで焼け落ちたといいます。
 その元の建物は街道の南側にありました。翌年に再建されたとき北側に移っています。それが現在でも残る油屋の本館です。下の写真は平成19年7月9日撮影。左が本館。

「油屋」旅館の本館と別館(2007.7.9撮影)

■旧脇本陣・油屋焼亡

「悲劇は豚の悲鳴にはじまつた」――とは、立原道造が火事の顛末を神保光太郎に報告した手紙の冒頭です。火元は隣家の養豚場だったようです。
 二階の部屋で昼寝をしていた立原道造は、火の回りが早く逃げ場を失い、比喩ではなく文字通り命からがら助け出されました。一緒に泊まっていた野村英夫ともども、着のみ着のままで焼け出されたわけです。
 二人の師でおなじく同宿していた堀辰雄は、ようやく『かげろふの日記』を書き上げたので、改造社に速達便を出すため軽井沢に出かけており、そのまま桜沢の川端康成を訪ねています。その間に油屋が焼亡しているなどとは夢にも思わず、その日は川端山荘に泊まっています。堀辰雄は危うく難を逃れたわけですが、王朝物語のために集めた文献や資料のことごとくを失ってしまいました。

旧「油屋」旅館の本館(2018.4.9撮影)

■旧「油屋」旅館の本館

 先にも述べたように、浅間三宿は明治に入るとすっかり寂れてしまいますが、のちに軽井沢が外国人宣教師によって避暑地として開拓され、沓掛が中軽井沢と名を替え星野温泉、千ヶ滝、鬼押出しへの入口として国土計画・西武グループによって開発されると、江戸時代とはまったく様相が異なった形ではありますが賑わいを取り戻します。もちろん軽井沢が賑わいを取り戻したといっても、昭和初期はまだ極ごく一部の上流階級での話ですが。

■学生の合宿所としての油屋

旧「油屋」旅館(H30.4.9撮影) しかし、追分だけは取り残されます。そこで、旧脇本陣から一般の旅館業に転じた油屋は、東京の蒸し暑い夏を避けて受験勉強や卒論を書きたい学生や保養施設として病気療養者を比較的安価に誘致したのです。
 もっとも、学生といっても現在の感覚で言う学生ではなく、受験勉強もおおかたは高等文官試験を目指していたわけで、もともと選び抜かれた東京帝国大学の秀才か、せいぜい早慶のそれも裕福な家庭の子息(たとえば慶応義塾出身の津村信夫や早稲田高等学院生だった野村英夫など)に限られていたわけですが。大学のレベルも今より格段に上で、「学生」という身分がまだ特権階級だった頃の話ですね。
区切りマーク
 その伝統は、戦後も続き、私が学生だった1980年代なかばから90年代のはじめ頃までは、すでに細々とではありましたが、確かに受け継がれていました。
 それで、明治大学文学部の小川和佑先生のゼミナールでは、昭和61年(1986)、平成元年(1989)、平成6年(1994)に軽井沢〜信濃追分で「ゼミ合宿」を行いましたが、三度とも油屋旅館に泊まったのです。油屋は超高級旅館というわけではありませんが、一般客として宿泊すればそれなりの値段で、学生には高嶺の花でした。にもかかわらず二泊できたのは、「ゼミナール割引」というのがあったからです。
 私が初めて当地を訪れた昭和61年4月、宿の帳場で直談判的に予約したときには、確かに「ゼミナール割引」を謳ったパンフレット(というよりチラシ)がありました。しかしそれはもうなんだか古いままのもののように見えましたし、当時ではもうあまり知られていませんでした。その後も「ゼミナール割引」が適用されていた私たちでしたが、いま思えば、小川和佑先生の名前で特別に安くしていただいていたのかもしれません。
 今更ながら、そんな感じがしてきましたが、少なくとも80年代なかばまでは「ゼミナール割引」が活きていたのは確かです。もしかしたら、私が手にしたのはそのチラシの最後の数枚のうちの一枚だったのかもしれませんが。

■堀辰雄疎開の家

油屋別館(新館)と堀辰雄疎開の家

 油屋の入口から旧中山道のやや東側から見た油屋の新館(別館)ですが、その東隣(右側)にちょっと写っているのが、堀辰雄が昭和19年9月から26年7月まで住んでいた家です。戦争末期に疎開し、そのまま戦後も住み続けました。しかし戦後はここでほとんど病に伏せていたといってよいでしょう。そのあたりのことは前のページで書きました。

□信濃追分文化磁場油や

「信濃追分文化磁場油や」の看板 平成19年(2007)4月に油屋は旅館の営業を休止します。その後、ホームページで改装中のアナウンスが流れていましたが、再開されることはありませんでした。そしてホームページもいつしか消滅していました。
 それでどうなったか。案じていましたが、平成24年(2012)にNPO法人「油やプロジェクト」が立ち上がり、「その由緒ある本館2F・和室5部屋を素泊まりの宿として再びお泊まりいただけるよう修復・改装をいたしました」と「信濃追分文化磁場油や」の公式サイトにありました。
 その設立の趣旨は下の案内看板に簡潔に書かれています。現在は「素泊まり」しかできないというのは、旧旅館の食事処をギャラリーに改装したからです。そのギャラリーは、芸術作品の発表の場として貸出しを行っています。現在の「油や」では食事はできませんが、旧応接間だったところに喫茶室はあります。

「油やプロジェクト」の趣意説明看板

 旧油屋旅館をほぼそのまま活かしながら、なかなか有意義で楽しそうな施設に変身していたわけですが、平成30年4月9日に訪れたときは、まだシーズン前で残念ながらオープンしていませんでした。

□村の古本屋「追分コロニー」

 その油屋旅館の東隣の「柳屋」内に、村の古本屋「追分コロニー」があります。ルート的には、むしろ堀辰雄文学記念館に近く、その斜め前の油屋の並びです。こちらは当日営業していました。入りたかったのですが、そこへ入ってしまったらすぐには出てこられなくなると思いましたので、泣く泣く素通りしてきました。探している本がありそうだったのですが。
 でもまあ今時は、こちらもインターネットで古書の販売を展開しています。追分コロニーの「本棚」は←に移転していますが、注文は「日本の古本屋」経由でした方が良いようです。私は「日本の古本屋」を愛用しています。

村の古本屋「追分コロニー」の看板  追分コロニーが入る柳屋

 平成19年には「ブックカフェ」も併設されています。メニューはコーヒーのみのようですが、高原で古書の匂いと珈琲の香りに囲まれたらさぞいいでしょうね。

区切りマーク さて、昼食ですが、お誂え向きに油屋の向かいに「純手打蕎麦・旬菜処ささくら」というおそば屋さんがあります。本ページの趣旨は観光やグルメではないので多くは語りませんが、盛り蕎麦とミニ天丼のセットは千円ほどと安くそこそこボリュームもあり美味しかったです。
(駐車場もあります。営業時間は、11:30〜15:00と、17:00〜21:00)

■立原道造「村ぐらし」の“郵便函”

  村ぐらし
          立原道造
 
郵便函は荒物店の軒にゐた
手紙をいれに 真昼の日傘をさして
別荘のお嬢さんが来ると 彼は無精者らしく口をひらき
お嬢さんは急にかなしくなり ひつそりした街道を帰つて行く
   *
道は何度ものぼりくだり
その果ての落葉松の林には
青く山脈が透いてゐる
僕はひとりで歩いたか さうぢやない
あの山脈の向うの雲を 小さな雲を指さした
   *
……  ……  ……
……  ……  ……
 
   ――初出:昭和9年(1934)12月『四季』第2号
  (小川和佑編『立原道造詩集』平成元年6月・明治書院刊に拠る)

 立原道造の記念すべき『四季』へのデビュー作の一つ「村ぐらし」の第一連と第二連です。(以下は次の次の泉洞寺のページでまた引用します)
 昭和9年夏、東京帝大に入学したばかりの20歳の立原、その初めての追分滞在の新鮮な感動が伝わってくる「心象スケッチというべき組詩」(同上・小川和佑注釈)です。
 その冒頭の第一語にある「郵便函」――が、戦前、戦中、戦後から、小川和佑先生が取材した1970年代にも、私が行った昭和も終わりの1980年代なかごろも、平成の30年間も、変わらずに同じ場所にあるのです、おそらく令和2年の現在もあることでしょう。

■郵便函は荒物店の軒にゐた

 下は昭和61年(1986)9月14日の写真。小川ゼミの最初の軽井沢合宿で撮ったものです。
 郵便函つまりポストが一歩も動いていないとするなら、二軒の荒物店(雑貨屋)の真ん中にあるように見えます。それで、この「荒物店」はどっちなのかという議論がありました。

荒物店軒下のポスト(1986.9.14)  郵便函がある荒物店(昭和61年9月14日)  

 1970年代に取材した『文壇資料 軽井澤』では、「いまでも当時と殆どそのままにある」右(東)側の〈増田屋〉だとされています。「油屋の入口の左隣にある」、「増田屋の建物は古い宿場時代の名残りを留める格子のはまった二階建てである」といいますから、1986年当時には廃屋になっている右の家です。なお、ここでいう油屋は現在の油屋です。往還から見て左隣というのは西隣ということです。
 しかし、左の家も細かい格子がない以外は似たような造りです。明治書院版の『立原道造詩集』の注釈では、「旧油屋斜め向かいにいまも現存する亀屋がそのモデル」となっています。

 それで、この下が今回平成30年(2018)4月9日に撮ってきた写真です。右の〈増田屋〉は修繕され、人が住んでいるようには見えませんが、明らかに保存のために手入れされています。左の家はシャッターに〈亀田屋〉とペイントされています。〈亀屋〉というのはこちらか。こちらは完全に現代風な店舗兼住宅に改築されています。この日は営業していませんでしたが、廃業したわけではなさそうです。 

丸形の郵便ポストに戻る(2018.4.9)  郵便函は荒物店の軒にゐた(平成30年4月9日)

 とまあ、荒物店がどちらでもいいのですが、とにかくこの同じ場所に変わらずにあの“立原道造の”「荒物店」があり、その軒下に「郵便函」があったということに、学生の私は大感激したのでした。

■彼は無精者らしく口をひらき

 特筆すべきは、「郵便函」の形状です。明治書院版『立原道造詩集』の注釈では、「この郵便函は現在のようなものではなく鉄製赤塗りの円筒型のもの」とありますが、すなわち1970年代や、私が最初に見た1986年当時の一本足の箱型から、現在は元の形に近いレトロな形状に戻ったということですね。
「郵便ポストの移り変わり」(郵政博物館)を見ると、明治45年から使われている「丸形庇付ポスト」(赤色鉄製の円筒形)は長く使われたそうで、立原のいう「郵便函」はこれだと思われますが、戦後の昭和24年に登場した上の写真のタイプは、それの改良型で、デザイン的にはほぼ一緒です。
 そうです、この形だからこそ、「彼は無精者らしく口をひらき」というのが面白く感じられるのです。サイドに「軽井沢郵便局第20号」とあります。この形のポストに付替えた長野県の郵政関係者に拍手!


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