文藝サイト「西向の山」 ホーム文学散歩軽井沢文学散歩小川ゼミの部屋

小川和佑先生と歩く軽井沢文学散歩アルバム 〔15〕  〈軽井沢編〉 | 〈信濃追分編〉 | 〈浅間広域編〉

〔10〕序〜信濃追分駅〜停車場道〜うとう坂 〔11〕一里塚〜追分宿郷土館〜旧測候所 〔12〕浅間神社〜追分節発祥地〜芭蕉句碑
〔13〕昇進橋〜堀辰雄終の住処・文学記念館 〔14〕油屋旅館・文化磁場油や〜“郵便函” 〔15〕行在所〜高札場〜諏訪神社〜道造像
〔16〕泉洞寺〜樹下石仏・泡雲幻夢童女の墓 〔17〕桝形茶屋〜分去れの常夜燈・石碑群 〔18〕庚申塚・ホームズ像〜吉野太夫〜跋

■御膳水

 立原道造「村ぐらし」の“郵便函”がある亀田屋の向かいの小径を南に下ると、旧道と新道の真ん中ぐらいに湧水が湧いています。今回は確認して来られませんでしたが、これを「御膳水」といいます。
明治天皇追分行在所の記念碑 江戸時代、本陣に泊まるような武家の諸大名や公家、門跡などに特別に提供されたといいます。それで、明治天皇が旧本陣を行在所(あんざいしょ=行幸の際の仮の住まい、要するに宿泊所)とされた折にも、ここの湧水が使用されました。

■明治天皇追分行在所

 明治天皇におかれましては、明治11年8月30日から11月9日まで、72日間にわたる北陸・東海道巡行が行われました。明治天皇の巡行は6回行われましたが、これは3回目で、5回目の明治14年東北・北海道巡行と並んで最大規模のものでした。
 9月6日に信州入り。碓氷峠の熊野神社で御小休(おこやすみ)、御昼の行在所(昼食)は軽井沢宿の旧本陣であった佐藤織衛邸、そして、
「追分駅に至れば、近村近郷より拝観に出でたる老若男女途(みち)に充満して犇(ひし)めき合ひ、学校の生徒も亦路を挾んで整列し、校旗凡そ十三流を秋風に飜し御通輦(つうれん)を待ちて一斉に拝礼し奉れり」
 と『明治11年の天皇北陸・東海道巡行』(NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ)にあります。

旧本陣跡入口□旧本陣跡(入口)

 その記念碑の左脇から奥に入って行くと、旧本陣(土屋家)の跡があるはずですが、今回はそこまで行けませんでした。
「当地に於ける行在所(あんざいしょ)は土屋一三氏〔此頃小学校として貸与県より補助金を与へて修繕す〕邸内なり。門を入りて右に新築せられたるもの是也。間口五間奥行六間半数室に分れ二方を廻らすに一間半許りの廊下を以てす。玉座(ぎょくざ)は奥の八畳にして上下の床書院等を備ふ。諸準備に至っては軽井沢御昼食行在所よりは更に鄭重を極めたりと云ふべく、御寝具、朝御手水(ちょうず 手や顔を洗う水)之具、御風呂之具を初め御宿に要する一切の具は悉く御荷物を解きて用意せられしなり」
 と同上に記録されています(いずれもルビは一部省略)。ただし、蚊帳だけは盛夏といえども、追分のこと不要なため、蚊帳を新調する分で「供奉員宿泊所の全部に充実することを得たり」とあるのが高原の旧宿場らしいところ。

■高札場

追分宿高札場(復元) その並びに高札場が復元されています。江戸時代には本陣の門前、街道の真ん中に建っていたそうです。
「追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
 寛永十年(一六三三)の古文書によると、広さ九尺、横一間、高さ三尺の芝土手を築き、高札場の柱は五寸角のものを使用し、駒よせ柱は四寸角で、高さ六尺の規模であった。
 昭和五十八年、当時の古文書等から、高札場を復元した。
 ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館の保管展示されている。
    軽井沢町教育委員会
    軽井沢町文化財審議委員会」

 と案内看板にあります。

■石尊山登山口(入口)

 高札場の脇から登山道(というか、登山口への入口)になっています。活火山である浅間山(2,568m)への登山は認められていません。石尊山(1,667m)の山頂までのコースに限り入山可。登ったことはありませんが、それほど険しい山ではなく、往復4時間半ほどのハイキングコースといえるようなルートだそうです。しかし登山は侮れません。登山者カードを提出し、下山届も出すことになっています。ですので安易には登らないようにしましょう。

□諏訪神社

 その登山道を千メートル林道の方へ行き、御影用水を渡ったあたりに諏訪神社があります。というかあるはずです。というのは、今回もここへは参拝できず、今まで一度も行ったことがありません。ですので、『神社探訪・狛犬見聞録』の「諏訪神社」をご参照ください。旧軽井沢にも諏訪神社があります。

□小林一茶句碑

 諏訪神社境内に、「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」の一茶句碑があります。これも次回の宿題にしたいと思います。私が撮るまでもなく上記ほかいろいろな人が写真を撮ってネット上にアップしているわけなんですが。

■“夢の箱”/蔦屋

 旧道に戻ります。下左の写真の右にある木箱は“夢の箱”というのだそうですが、市民のいわゆる青空文庫で、旧道の両側にいくつか設置されています。読みたい本があれば自由に取り出せて、蔵書にしたければ自分の本と入れ替えるというルールになっているとのこと。
 右は、現在は個人のお宅ですが、江戸後期の旅籠「蔦屋」ということです。旅籠当時の面影が残る土間や、部屋のそれらしい仕切りがよく保存されているそうです。

夢の箱(青空文庫)  旧旅籠「蔦屋」

■追分公民館

 さて、次には泉洞寺に行きたいわけなんですが、その少し手前(東)の南側に、追分公民館があります。これは平成6年(1994)に建設された新しい施設です。新しいというのは私の感覚で、出来てからもう四半世紀たっているわけですが、小川和佑先生のゼミ合宿で来た時はありませんでした。三度目に来た年に落成。
 設計は、立原道造とは石本建築事務所の同期で親しくしていた武基雄氏。武氏は長崎出身で早大卒。当時銀座にあった石本建築事務所へは、東大工学部と早大理工学部の建築科をトップで卒業した者しか就職できなかったそうです。
追分公民館の立原道造レリーフ区切りマーク
 立原道造は実は建築家としても優れていて、特に小住宅の設計で三度東大の辰野金吾賞を受賞しています。
 武基雄氏ものちに早大教授となり、武建築設計研究所を設立。立原とは逆に、長崎水族館、長崎市公会堂や古川市民会館(宮城県の現大崎市民会館)、島原文化会館、諫早市民センターなど多数の大型施設を手掛けています。

■立原道造レリーフ

 それで、公民館の東面の壁に、立原道造の肖像とZ章からなる組詩「夏の旅」の「T 村はづれの歌」を浮き彫りにしたレリーフが埋め込まてれいます。
 制作したのは、長年追分に山荘を構える彫刻家の加太肇江(かぶと・ちょうこう)氏。加太氏の作品はほかにも、中村真一郎の胸像と坐像、中村夫人で詩人の佐岐えりぬ氏の頭像が軽井沢高原文庫の堀辰雄1412番山荘内に展示されています。

■立原道造「夏の旅 T 村はづれの歌」

 夏の旅
  T 村はづれの歌

             立原道造
 
咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教へてくれた――
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
さうして 夕やけを背にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音の叢に 私たちは生まれてはじめて言葉をなくして立つてゐた

 
   ――初出:昭和10年(1935)12月『四季』第13号
  (小川和佑編『立原道造詩集』平成元年6月・明治書院刊に拠る)

 昭和10年夏、二度目の追分滞在をモチーフにした組詩のT章。前のページで引用した『四季』デビュー作「村ぐらし」を発展させた詩ですね。
「U 山羊に寄せて」では一転、街道の東端の浅間神社前の「小さな橋」に飛び、「V 田舎歌」では今度は西端の「水車小屋」に飛びます。

■加太肇江作レリーフ

立原道造「夏の旅 T 村はづれの歌」レリーフ  

■物語「ちひさき花の歌」の中の「村はづれの歌」区切りマーク(歩く白猫)

 なお、この「村はづれの歌」は、のちに物語「ちひさき花の歌」(物語集『鮎の歌』の第二編に想定)のUに挿入詩として再録されています。
 見ての通りいくつか異動があり、「そのかえし――」(反歌)として立原道造にはたいへん珍しい俳句(小川和佑先生の注釈では「俳句様式の短詩」)が付け加えられています。
「ちひさき花の歌」は昭和11年5月、『未成年』第6号に発表。『未成年』は昭和10年5月に立原が一高以来の盟友・杉浦明平や寺田透、江頭彦造、猪野謙二らと創刊した東京帝大の学友を中心とした同人雑誌。創刊号と2号、4号はおもに杉浦明平、第3号は立原と竹村猛、第5号は猪野謙二、第6号から9号までは立原が編集を担当していました。昭和12年1月発行の第9号で廃刊。満年齢で言えば、立原は20歳から22歳のころ。

 「ちひさき花の歌」より
  村はづれの歌

             立原道造
 
咲いてゐるのはみやこぐさと 指に摘んで
光にすかして 教へてくれた
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方にぼんやり空を眺めて佇んでゐた
さうして夕やけを背にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音の叢に 私たちは生まれてはじめて言葉をなくして立つてゐた
 
    そのかえし――
 
 背のびして触はりし枝の径なりし
 
   ――初出:昭和11年(1936)5月『未成年』第6号
  (『立原道造全集 第三巻 物語』昭和46年8月・角川書店刊に拠る)
  (※字体は新字体に変えてあります)

 連作『鮎の歌』はじめ「かろやかな翼ある風の歌」や「春のごろつき」などの一連の歌(詩)入り小説(立原の言葉では「韻文小説」)は、立原道造の野心とは裏腹に当時もその後もその十四行詩に比べて高く評価されることはありませんでした。むしろ否定されたといっていいでしょう。が、その試みはもっと評価されてもいいと思います。
 ただ、「ちひさき花の歌」の冒頭、「僕はおまへにアンリエツトといふ西洋の名をつけた」云々というだけで、もう背中がムズムズしてくるという人もいるでしょうね。


Back/軽井沢文学散歩〔9〕 文学散歩 軽井沢文学散歩/Top Next/軽井沢文学散歩〔11〕

短説と小説「西向の山」/HOME Copyright © 2018-2020 Nishiyama Masayoshi. All rights reserved. (2020.5.21)